帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

命の大切さを語る時に「何億匹の精子の中から選ばれて生まれるのだから一人一人の人間が大切なのだ」というような言葉が使われることがある。
私の印象に残っているのは、小学校の時に担任だったヒステリックな女の教員だ。
当時はオバサン扱いしていたが、今の私と同じくらいの年齢だったように思う。
私のいたクラスには知能が少し遅れている児童がいて、彼をからかうような言動を取るクラスメートが何人かいた。
それが問題になって、よくある感じで理不尽にもクラス全体がお説教を食らう羽目になったのだが、その時に上に挙げたような話をしていた。
当時の私は流石にまだ反出生主義ではなかったけど「そんなんただの生物学的な事実なんだから理由になってないよな??」と子供ながらに違和感を感じていた。
関連記事:生まれてこなければ良かった その2 反出生主義 
「精子がたくさんいても受精に至るのは一匹だけ」というのはロマンティックでも奇跡的でもなんでもないただの事実だ。

配偶子の大きさ

進化心理学や進化生物学の本だと、だいたい一章を使って男女の性差について述べている。
中でもドーキンスの『利己的な遺伝子』の説明は身も蓋もなくて分かりやすい。
利己的な遺伝子 <増補新装版> [単行本]
生物は精子や卵子のような配偶子を減数分裂で作る。
進化の歴史の中で、配偶子の形状については2つの戦略が生き残った。
エネルギーを費やして大きな配偶子を作る戦略と、自分は小型の配偶子を大量に作り別の個体が作った大きな配偶子と結合させる戦略だ。
後者の寄生的な戦略を取った個体の末裔がオスということになる。
メスは自分の配偶子である卵子に多大なエネルギーを投資しているので、生まれた子供と自分をオスに守らせるよう行動する。
反対にオスは、多くのメスと交尾して多くの子孫を残すのが遺伝子のビークルとしての最適戦略だ。
ただし、オスは子供が本当に自分の子供なのか(DNA検査に依らない限り)通常は確信できない。
寄生的な配偶子を持った代償として、自分以外のオスの子供を育てさせられるという最悪のシナリオが起こりうるようになった。
子供が本当に自分の子供か悩む父親の姿はフィクションでもリアルでも相応に見られるが、これは究極的には配偶子の形状の相違から生まれる。
いずれにせよ、精子と卵子の相違はロマンティックでもなんでもない戦略上の優位性により存在するのだ。

精子は本当に競っているか

精子観察キットを購入して自分の精子を見たという人がこんなことを言っていた。
「俺の精子あんまりやる気が無いみたいなんだ。半分くらいしか動いてないんだよなぁ・・・。」
これは多分彼の精子だけの問題ではないだろう。
WHO(世界保健機関)が精液検査ラボマニュアルというものを定めている。
同マニュアルでは精子検査で見るべき項目とその基準値が示されており、主要な基準をクリアすれば正常精液ということになる。
その中に、運動精子50%以上、前進運動精子25%以上という検査項目がある。
簡単に言うと、前者は『早く動いている精子とゆっくり動いている精子の合計が50%』という基準で、後者は『早く動いている精子が25%以上』という基準だ。
リンク:日本産科婦人科学会の会報誌
早く動いてる精子が4分の1あれば正常というのは一般的な感覚より少ないのではないだろうか。
残りの4分の3くらいは最初からレースに参加していないのだ。
なんと懸命なことだろう。
生まれる前から生きるつらさを知っていてレースから降りたのではないかという想像をしてしまう。
 


そんなわけで、「生まれてきた人間は数億匹の精子の中でレースに勝った選ばれた存在だ」というようなレトリックは大変に疑わしい。

余談になるが、進化心理学の記事で挙げた明治大学の石川幹人教授の本に、精子の量についての面白い話があった。
生きづらさはどこから来るか―進化心理学で考える (ちくまプリマー新書) [新書] 
関連記事:『生きるのがつらい』療養論4 僕たちは種としても個としてもズレている
霊長類の「体のサイズ」に対する「睾丸の大きさ」と「ペニスの長さ」の比率を比較すると興味深い傾向が見て取れる。
チンパンジーの睾丸は体に比してとても大きい。
彼らは乱婚をするので大量に精子を作る個体が子孫を残しやすいのだ。
ゴリラはムキムキの屈強な体躯をしているが、その割に睾丸とペニスの大きさは控えめだ。
彼等は1頭の雄が複数の雌を引き連れたハーレムを作る。
ゆえに性器の大きさよりも雄の間の闘争で勝つための強靭な肉体が必要なのだという。
ちなみにヒトは体の大きさに対するペニスのサイズの比率が他の霊長類よりもダントツで大きいそうだ。
オチは是非本で読んでみてください(石川先生の考察がちょっと書いてあるだけですが)。 


 


  • 働く
  • 休む
  • 辞める
  • 死ぬ

朝起きた時に今日の行動を考える。
私が普段思い浮かべている選択肢は上に挙げた4つだ。
だいたいはこの通りのオーダーで、上の選択肢がNGの時は下の選択肢を検討することになる。
働けないなら休む、休んでも辛いなら辞める。
さらにどうしようもなくなっても死ぬという選択肢がある。

通常は、死ぬことに比べればそれ以外の「働く」「休む」「辞める」の方が容易だ。
だが、「死ぬ」という選択肢が一番上に来てしまうこともある。
(その都度NGを出して来たから今この文章を書けている。) 
坂口恭平は『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動なので、その時は何もしないで休む」という旨のことを言っている。
関連記事:誰かに「生きろ」っていうのは「死ね」っていうのと同じくらい暴力的だと感じる
これはとても素敵な考え方だ。
だけど、「死ぬ」ことは自分ひとりでも出来るため、状況によっては純然たる事実として他の選択肢よりも容易なのだと思う。

「働く」ことは辛い。
私はこれまで、結構自分の望むような仕事をして来たのだけれど、どれも楽しみを見出だせなかった。
正確には楽しい部分もあるのだが、上司や同僚や他部署の人や社外の関係者と一緒に働くしんどさが、それをスポイルしてしまう
通勤して事務所に行き、多くの人がいるところで働くというだけで疲れてしまう。
他人が関わると興味があったことでも辛くなってしまうことがある。 

「休む」ためには会社に一報を入れないといけない。
実はこれは社会常識という無根拠な規律づけだ。
連絡を入れないことによる不利益と比較衡量してなお連絡することが辛いなら、無断で休めばいい。
ただ、僕たちは無断で欠席したり欠勤するのはいけないことだと子供の頃から刷り込まれてきた
生政治 の担い手である学校という装置は、工場労働者に求められた規律を現在でも人々に埋め込み続けている。

「辞める」ための手続きもそれなりに面倒くさい。
私はフルタイムの仕事を2回辞めたことがあるが、いずれも以下のような流れだった。
最初に直属の上司に辞意を伝える。
所属長と役員まで伝わったら退職日を決めて退職届を提出する。
この過程で、翻意を促されることもあるし、退職日について両者の意見をすり合わせたりする。
ちなみに、病気で長期間療養する時も「辞める」時の手続きに近かった。
すなわち、レポーティングラインの人々に伝えて、日程を調整して、紙を提出する、という流れだ。
また、辞める時は家族への説明もかなりの労力を要する。
無職になることへの批判は容易に想像できるし、転職の場合であっても風当たりが強い場合が多いのではないだろうか。

僕たちは、働くことも、休むことも、辞めることも自分ひとりでは出来ない。
それに対して、死ぬことは自分ひとりで出来る。
(正確に言うと、死んだ後は遺族が役所や金融機関やインフラに対して手続きをしないといけないが、当人はそのことを考える必要はない。)
辛いときほど、一人で実行できる選択肢を容易に感じる。
だから、追い詰められれば追い詰められるほど「死ぬ」という選択肢の順番が上に来てしまう。
(あるいは坂口さんはここまで思い詰めてしまう状況を「脳の誤作動」と言っているのかもしれない)

多くの人は毎日の選択肢の中に『死ぬ』という選択肢は無いようだ。
分かってくれそうな人でも「朝起きてしようと思うことに『死ぬこと』がある」と言うと驚かれる。
他人と一緒に「働く」ことがそこまで嫌いではない人が多い。
また会社を辞めるにしても自分ほど周りへの説明を気にしてナーバスになる人は少ない。

では、一度頭のなかに『死ぬ』という選択肢が生まれると、それが頭の中から無くなる日は来るのだろうか。
永田カビさんがレズ風俗レポの 後日談で「ずっと頭の中にあった『死ぬ』という選択肢が久しぶりになくなった」という旨のことを書いていたので、きっかけがあれば解消されるのかもしれない。
ただ、新作を読むと今でも結構しんどそうなので、一度『死ぬ』という選択肢が出来てしまうと、やっぱりそう簡単には無くならないのかもしれないとも思う。

アルコール依存症の不可逆性についてよく言われる例えがある。
「アルコール依存症は進行性の不治の病です。たくあんが大根に戻らないのと一緒です。」
『死ぬ』という選択肢がある状態もこれに近いのではないか、というのが私の今の持論だ。



 

うつで休んでる間に自分の生き難さの原因とその対処について考えていました。
もう少し増やすつもりです。

<タイトルをクリックすると個別の記事にジャンプします。>

◯『生きるのがつらい』療養論1 うちなるカウンセラーを持つために
生き難さへの対処として、私は「健全な他者転嫁」が出来るようになることを目標としました。
自分の生き難さを自分から切り離すために「生育環境が人間に与える影響」「生物としてのヒトの特徴」「社会構造が人間に与える影響」が手がかりになりそうだと思いました。

◯『生きるのがつらい』療養論2 僕は機能不全家庭の子供だった
アダルトチルドレンという考え方は私にとってかなり衝撃的でした。
微妙な家庭で育ったという思いがある方は、「原家族にあった問題とルール」「そこで自分が果たしていた役割」「そこで自分に染み付いてしまった考え方」などを振り返って見ると今の自分の問題に近づける可能性が高いです。
吐気がするほどしんどかったけど、私はやって良かったと思っています。

◯『生きるのがつらい』療養論3 資本論と人間嫌いの葛藤
私は賃労働が嫌いだ。金持ちの家に生まれたので働かずに生きていける人間がいるということには腹が立ってたまらない。
それでいて、私は家族や他人からの自由を与えてくれる貨幣を求めてやまない。
私は、資本主義に対して苛立つことがあっても、地縁や血縁の濃密な資本主義以前の共同体は御免だし、革命のために他の労働者と団結するのも嫌なのです。

◯『生きるのがつらい』療養論4 僕たちは種としても個としてズレている(進化心理学とけものフレンズ)
生物としての人間は石器時代後期の環境に最適化されていると言われています。
そういった意味で、ヒトという種は自分達が作った現代社会からズレています。
また、同じ種の中でも個体差は相応にあります。
人によってズレてる部分は異なりますが、皆どこかしら標準的な個体からズレています。
そして、ズレている部分によっては、現代社会で生きるのが辛くなります。
おそらくそこには、原因はあるが目的は無い。

「ゆっくり歩くと日射病になります。でも早く行くと教会で汗が冷えて風邪をひきます。」
カミユの異邦人は、養老院で死んだ母親の葬式から始まる。
上の言葉は、葬列を歩く主人公のムルソーに参列者(記憶が曖昧だが看護師か尼僧だったと思う)がかけた言葉だ。
ムルソーは言う。
「彼女は正しい。逃げ道は無いのだ。」と。
関連記事:異邦人雨に滑る

私事だが、ちょっと前に病気休職から復職した。
バラバラと思ったことを書くのでよろしければお付き合いください。



最初に与えられる仕事はコピー係かシュレッダー係くらいだろうと思っていた。
だが、幸か不幸か普通に仕事を与えられている。
復帰直後に期限のある仕事をバッファがあまりない状況で振られた時には、「俺はこんな奴らに良いように使われるためにわざわざうつを直して復職したのか」と考えてしまい、悲しくて惨めな気持ちになった。
一応、その思考は認知の歪みが出てるなと思ったので、ソラナックス(安定剤)を飲んでこらえた。
期限があるので少し残ってやっていると、定時で帰るよう言われた。
こいつは俺が働きたくて残っているとでも思っているのだろうか。
状況を説明しながら「なんで俺がこんなことまで気を使わなければいけないのだ」と思った。
助けてソラナちゃん。
療養の後半は無しで良かったのに、働きだすと安定剤の減りが早い。
ただ、2ちゃんねるのメンタルヘルス板や個人のサイトで他の復職経験者の話を見ていると、逆に復職したものの仕事を与えられず辛いという方々も多かった。
まぁそれもわかる気がする。
どっちに行ってもデッドロックだ。逃げ道はないのだ。



朝なかなか起き上がれなくなった。
リワークの図書館通いは出来るようになっても、会社に行くのはずっと難しい。
ニコニコ動画で淫夢動画を見て、時間ギリギリに起き上がる生活に戻った。
関係ないけど、4月に入ってから結構淫夢関係の動画が消えた。
KBTIT総集編とひでの本編と怪文書アレンジとスターウォーズのパロディはたまに見ていたので結構ショックだった。
やっていることが休む前と同じだ。
関連記事:休日以外は全部楽しくない
草も生えない。


復帰してちょっとしてから、休む前に同じ部署だった美人の同僚(既婚)が昼飯に誘ってくれた。
自分がいない間の話になって「○○さん(その同僚のチームの課長)がマイナスニキさんが作った資料褒めてたよ!」と言われた。
俺は答えて言う。
「死人の悪口は言わないもんさ。」
気分はコブラかルパン三世だね。



北朝鮮情勢が緊迫している。
朝鮮半島近海には米国の空母が集結し、北ではミサイル発射と核実験の動きがある。
私はここ10年くらい、世界の終わりをずっと待っていた。
2012年のマヤ文明のカレンダーには少し期待していた。
だが、待ちに待ったドゥームズデイが迫っている(かもしれない)のに、人間に殺されると思うと歓迎する気になれない
人間嫌いだからみんないなくなればいいのにと思うことがある。
だが、人間嫌いだから他人に殺されるのは腹が立って仕方が無い。
寝てる間に世界が終わってくれるのが理想だ。


 

残酷さに目を向けることが救いになるなんて、昔は思いもよらなかった。

「ぼくたちは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされてはいるわけではない」

進化心理学という言葉は、橘玲の本で知った。
同書は、人間は自ら変わることが出来るという『自己啓発』の思想に対する橘の疑問からスタートし、生物学、心理学、社会学の理論を紹介しながら、「人は簡単には変われない、だから開かれた世界に自分の居心地のいい場所を探すのだ」という結論に至る。

進化心理学について

進化心理学は1970年代頃から研究され始めた新しい学問分野だ。
その名の通り、人間の心の動きを、それが進化の過程でどのように発生したのかというアプローチで解き明かそうとする。
ダーウィンが『種の起源』を出版したのは1859年なので、進化論のアプローチが人間心理に適用されるまでには相応に時間がかかっている。
これは、1950年以降の分子生物学の発展を待つ必要があったからだとか、学問間のセクショナリズムが原因であるとか言われている。

生物としての人間の歴史を遡ると、最初期の人類である猿人が登場したのは現在から500万年前、そこからジャワ原人やネアンデルタール人登場し、50万年前にかけてホモ・サピエンスが現れたといわれている。
一方、文明の端緒となる食料生産が始まったのは今から1万年前だ。
この1万年という期間は、生物の種が変化するにはあまりにも短い
ヒトは、定住生活よりも狩猟採集生活をしていた期間の方が圧倒的に長いのだ。
従って、ヒトの脳は狩猟採集時代に最適化された状態から変化していないという。
冒頭の橘の言葉は、「現代人は狩猟採集時代に最適化された脳を持ちながら現代を生きる矛盾を抱えた存在である」ということを述べたものだ。

生き難さの原因を考える上で進化心理学は強力な指針になると思う。

ヒトはストレスを生死とつなげて考える

例えば、承認欲求は狩猟採集時代の生活を想像することで説明できる。
狩猟採集時代のヒトのオスにとって、職業選択は命がけの選択だった。
自分の得意な分野(体が屈強なので前線で戦う、手先が器用なので罠や武器を作る、空間認知に優れるので猟場からベースまでの先導をする)を仲間に認められ、それを仕事にしないと、自分と仲間が死ぬリスクが高まる。
いくら手先が器用でもそれを仲間に認められないと、体が丈夫ではなくても前線で戦う役目を与えられてしまうかもしれない。
私たちは、職業選択や仕事上の評価について生死をかけるほど悩む素養を、ある程度生まれながらに持っているのだ。

ここから先は私の考えたことになるのだが、現代人は恐怖やストレスを実態より過大に受け止めるようにできているのではないかと思う。
狩猟採集時代は、恐怖やストレスのほとんどが死に直結するものだった。
毒蛇や肉食獣のような外敵はもちろん、上述の能力の承認や群れの規律を乱す個体の排除といった集団内のイシューも当時は生死を分ける問題だった。
一方、現代では、恐怖やストレスの原因そのものが生命を脅かすことは少ない。
都市で細長い物体に驚いてもそれが毒蛇である可能性は限りなく低いし、仕事で失敗しても命を失うことはない
(もちろん警察官や消防士は殉職する可能性があるが、狩猟採集時代は全員がそれ以上の死亡リスクを抱えており、職業選択の自由度は圧倒的に低かった)
しかし、私達の心は、集団内の問題が生死を分けていた時代を覚えている
それゆえに認知の歪みが生じ、抑うつ状態を引き起こすのではないだろうか。

多様性と標準とのズレ

もう一つ、純粋な進化心理学の話ではなく、インスパイアされて私が考えた話をさせてほしい。
私たちはヒトという種の特徴を持っているが、その一方で、生物は同一種の中でも多様性を持っている
多様性は環境の変化に適応し、種が存続するための大切なポイントだ。
しかし、 群れとしての最適戦略である多様性は、必然的に群れの中に標準から外れた個体を作り出す。
例えば、不安の感じやすさには個人差があるが、分布を取れば「危険に対する感性が欠如した人」と「過度に不安を感じやすい人」を左右のテールにおいた釣鐘型になるだろう。
そして、国家や社会の単位が大きくなった現在では、分布の中心(標準)から外れることが生き難さにつながりやすいのではないだろうか。
例えば、制度や規範が標準的な個体が快適なようにデザインされる。
また観点は異なるが、与えられる選択肢と社会の過大は世代により大きく変わるにも関わらず、前世代の標準を押し付ける圧力が働くこともストレスになる。

2017年1-3月期に「けものフレンズ」というアニメが大ヒットした。
私はネットで話題になってから見たのだが、急展開の11話から12話(最終話)までは放送が待ち遠しくなるくらいはまった。
最終話で「群れとしての我々の強さを見せるのです!」と言い、みんなが協力するシーンがある。
「フレンズによって得意なことは違うから」「けものはいてものけものはいない」といったこれまでの象徴的な言葉が思い浮かんだ。
多様性に奉仕すれば、種だけでなく私達個人にも多様性が見返りを与えてくれることがあるのかもしれない。
もちろん、人間の社会はジャパリパーク(けものフレンズの舞台)と比べるとだいぶ厳しい
我々の社会は、分布の中心から外れれば生き難さを感じるように出来ている。
そして、私達の大きな脳みそは、分布の中心に近ければ近いで、己の凡庸さを嘆くように出来ている。

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進化心理学の考え方は、ともすれば決定論的に響いてしまい、残酷で無慈悲だと受け止める人もいる。
ただ、私は、自分の辛さを自分から切り離すための手段として、この考え方は有用だと思った。
ヒトという種は葛藤を内包した存在なので、僕達の生き難さは全てが自分の責任ではない。
個人の資質が標準から外れていると生き難いのだが、それは種の存続のための多様性の範疇なのだ。
そして、おそらくそこには、原因はあるが目的は無い。
私はこの考え方でけっこう楽になった。




上の「いきづらさはどこから来るか」の方が読みやすいけれど、その分内容も絞ってあります。
ただ、生き難さにフォーカスしたトピックでこちらでしか触れられていないものもあるので、惹かれるタイトルの方から読めば良いと思います。
私は「いきづらさ~」→「だまされ上手が~」の順に読みました。
本文で書いた承認と職業選択の例は本書からの引用です。


英国の研究者の書いた入門書。
上の新書2冊の方が面白かったですが、本書には「心の病を進化から説明する」(第6章)という興味深いトピックがあります。
支配的な理論はまだ無いようなのですが、包括適応度説(血縁度の高い個体(兄弟姉妹など)を生存させるために自分を死に至らしめるメカニズムがあるとする説)は背筋がゾクッとしました。


冒頭で紹介した本。橘さんの著書でいちばん好きです。



キャラクターデザインに反して、ポスト・カタストロフィ的な伏線が随所に張り巡らされており、続きが気になるストーリーでした。
また、ヒトも含めた動物の特性の描写が巧みでした。

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