帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

療養中に、資本論の解説書を読んだ。

資本主義の解説書を求めて

私はこれまで、資本主義というものをあまり疑わなかった。
ニュースの意味を理解するようになる前に、ベルリンの壁もソビエト連邦も崩壊していた。
私が生まれ育った時代には、共産主義はすでに枯れた思想だったのだ。
政治思想を学ぶ中で、能力や生産に応じてではなく必要に応じて分配を受けるという共産主義の理念に共感はしたが、それは人間には実現不可能な夢の世界のように思われた。
市場を通した分配がうまくいくとは限らないが、私はそれ以上にオーソリティーによる分配のほうが信用できないと思う。 
ただ、共産主義が資本主義の代替として実現し得ないとしても、私が嫌悪する過剰な労働を生む装置(24時間営業やワンオペや残業ありきの社風)が資本主義の産物だということも事実だ。
共産主義の入門書ではなく、文字通り資本主義の解説書として資本論を学びたいと思った。

ちなみに、私が初めて資本論に言及する文章を読んだのは、『ナニワ金融道』で知られる漫画家の青木雄二のエッセイだった。
なんでも、青木は漫画家になる前に自分が作ったデザイン会社を倒産させてしまった経験があり、仕事がない時期に資本論を読んだことがきっかけでマルクスに傾倒するようになったという。
幸か不幸か私も当時の青木とちょっと似た状態だ。
資本論の勉強をするにはちょうどよいタイミングだろう。
とはいえ、原著を読むのは骨が折れそうなので、薄い解説書と厚い解説書を読むことにした。
カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) [新書] (薄い解説書)
〈資本論〉入門 [単行本] (厚い解説書)

資本論は結構思慮深かった

読んでいると、想像していた以上に思慮深く現代的な記述が多く驚いた。
例えば、労働者に対して猛々しく団結を説く共産党宣言とは異なり、資本論では「資本家」と「労働者」を個々の人格としてではなく、あくまで抽象的な役割として論じている。 
現代では、証券口座が市民にもく普及しており、公的年金や保険を通した間接的な保有も合わせれば国民の多くが「株主」としての顔を持つ。
このように、資本が一定程度民主化され「労働者」が「資本家」を兼ねるようになった現代においても、「資本家」と「労働者」を社会構造における役割として考えるのであれば一般性は失われない。

資本論と働くのが嫌いでケチな私

特に印象的だったのは、資本論における商品論と貨幣論が、私の労働嫌悪ゆえの思考や貨幣観と整合的だったことだ。
当サイトにもしょっちゅう書いているのだが、私は働くのが嫌になってからお金が使えなくなったし、お金を使わないと生命が維持できない人間は呪われた存在だと考えている。
だが、そのような考えとは裏腹に、私はお金を嫌悪するのではなく、自分に自由を与えてくれるものとして心の底から欲している。

資本論と照らして見てみよう。
1.労働力商品
生産手段を持たない労働者である私は、労働力以外に売る物がない。
持たざる者として「労働力を売る自由」があるのみだ。
2.労働力の価値
そして、労働力の値段は労働の再生産にかかる費用から決まる
明日からまた働けるだけの状態を維持するための費用が労働力の対価として支払われるのだ。
それゆえ、妻子がいない私のような人間でも、衣食住を満たしたうえで手元に残る金額は多くない。
賃労働に身をおく限りは、働けなくなるまでそれから解放されないのだ。
また、私は常日頃から、労働力を売ることで労働者に発生する出費はばかにならないと考えていた。
例を挙げると、以下のような具合だ。
・自分で食事を作る時間を奪われるために外食に高い費用を払わねばならない。
・仕事のストレスの発散のために娯楽や遊行にお金を使う誘惑にかられる。
・休日が他の労働者と集中するので、レジャーなどで混雑する時期に高額な費用を払わねばならない。
・古本屋を回ったりオークションを調べる時間が無いため、中古品を安く手に入れる機会が限られる。
高ストレスで拘束時間が長い仕事ほど給料が高いのは、労働力の再生産コストが高いからだという理解も成り立つ。
賃金が労働力の再生産のためのコスト分だけ支払われるのであれば、衣食住や娯楽を削って自己を再生産する費用を下げることでしか僕たちは自分の手元に金を残せないことになる。
そのように考えると、生命の維持はやはり呪いだ。 
3.貨幣のフェティシズム
貨幣から商品への交換は「一般」から「特別」への交換である。
そして、他の多数の商品と交換可能な貨幣はいつしか特殊な価値を持つようになる。
特別な財だとみなされるようになった貨幣は、単なる流通の便宜のための道具ではなく、人間の行動様態に影響を及ぼすようになる(物象の人格化)。
貨幣を際限なく貯蔵する欲求を抱かせるだけでなく、貨幣を通じて実現される自由、平等、所有が人間の普遍的な権利であるというイデオロギーを形成させる。
貨幣は私の中では、お金があればコミュニケーションを削減できる、お金があれば働かなくても良い、お金を稼いでいるうちは家族にも文句は言われない、という思考として人格化した。
他者からの自由のために貨幣を求めてやまない私は、賃労働を嫌いながらも貨幣のフェティシズムに支配されている。

(その他にも「分業は労働者を疎外する」とか「生産力の向上は過剰な労働力を生むから労働者に不利になる」といったことは覚えておくと健全な他者転嫁をする上で有用だと思う。)

資本論と人間嫌いな私

このように、資本論は結構私の悩みにしっくり来る思想だったのだが、引っかかる点も相応にあった。
一番疑問だったのは、マルクスは資本主義以前の家族や共同体のような人間関係を美化しすぎているのではないかということだ。
例えば家族について言えば、共産党宣言に以下の文言が出てくる。
”ブルジョア階級は、家族関係からその感動的な感傷のヴェールを取り去って、それを純粋な金銭関係に変えてしまった。”
とてもじゃないが、私は家族がそんなにロマンティックなものだとは思えない。
また、濃密な地縁関係の中で生きるよりも隣人を気にせず暮らせる現代の都市生活の方が煩わしくないし、徒弟制度よりも本とネットで勉強する方が気が楽だと思う。
私は地縁・血縁の共同体の一員として生きたり、革命のために他の労働者と団結するよりも、貨幣で結ばれた関係の方が気楽なのだ。

階級闘争よりも身近な感情

私は労働と貨幣から生じる生き難さを持っている一方で、貨幣から離れて濃密な人間関係の中で生きていくこともしたくない。
袋小路のような資本の迷宮の中で、なんとなく救いがあるように感じたのは、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉だった。
シュンペーターは経済学者としてのマルクスの功績を高く評価しており、著書の『資本主義、社会主義、民主主義』の最初の章を社会主義、すなわちマルクスの経済理論の考察に当てている。
その中で彼は、
「マルクスは労働者の本音を階級意識に基づく社会発展という啓示にすり替えた。実際には、多くの労働者はプチブルジョアになりたいと考えている。」
という、身も蓋も無いがその通りのことを言っている。

幸福は比較の中で感じられることが多い。
他者との比較によってもたらされることもあるし、過去との比較(すなわち変化)の中で感じられることもある。
労働者がプチブルジョワになると他者との比較でも過去の自分との比較でも幸福を感じられる。
疲れることが多いけれど「能力を発揮して対価を得て、過去の自分や他者よりも豊かになる」ことには、やはり抗いがたい魅力があるのだ。

資産家の家に生まれて労働をしなくてもいい人間がいることは不公平だと思うし、そういう人はとてもうらやましい。
働く時間と場所に自分の自由が無いことや、社会や会社のつまらないルールに従わなければならないことは辟易する。
そのような、生まれながらの富の偏在と画一的な賃労働を生む資本主義には不満がある。
だが、全ての人間が寝て暮らせる時代は無かったし、他者との距離は資本主義以前の社会の方が近かった。
だから、もうしばらく降りないで働いてみようと思った。
一応、資本主義は人間嫌いな私にはそれなりにフィットしているような気がするから。

 
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私が今回読んだ「薄い解説書」。
『大学四年間の哲学が10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)で推薦図書として挙げられていたので最初に読んだのだが、要点がわかりやすくまとまっているとても良い本だった。
資本論の概要の説明が100ページくらいでされている恐るべき本(残りの150頁ではマルクスの生涯と最近のマルクス研究について解説している。)。
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「厚い解説書」はこちら。
著者のハーヴェイはニューヨーク市立大学で経済地理学とマルクスを研究しており、米国中で資本論の講義をしている。
本書は資本論を読み通すためのガイドとして書かれたもので、資本論の構成に沿って適宜原文を引用しつつ、現代的な解釈も絡めた説明をしている。
読みにくい本では無いのだが、初めの数章は原著がそもそも難解なので、200ページ位までは全部理解しようとして読まないほうが良いと思う。 
 

知らない言葉であっても既知の情報から意味を類推できる能力は、人間の持つ優れた能力の一つだ。
だが、類推は時に誤解を生み、その誤解が修正されること無く、間違った情報として認識されてしまうことがある。
「情けは人のためならず」が情けをかけるとその人のためにならない(だから人には厳しくせよ)という意味だと誤解されたり、「気のおけない人」は気を許してはならない油断ならない人物のことだと誤解されたりする。
アダルト・チルドレンもそのような誤解を受ける機会が多い言葉の一つだと思う。
私も正確な意味を知るまでは、この言葉は「我儘でこらえ性のない子供っぽい大人」を意味すると思っていた。
事実は全く異なる。
アダルト・チルドレンという言葉はもともとアルコール依存症治療の場で生まれた言葉だ。
アルコール依存症家庭に生まれた子供は、大人になってから親のように依存症になったり、依存症のパートナーを持つようになる事例が多いという。
アダルト・チルドレンは正確にはアダルト・チルドレン・オブ・アルコホリクス(Adult Children of Alcoholics)、すなわち「アルコール依存症の親を持った子供が成人した人」という意味だ。
現在では、アルコール依存症に限らず、コミュニケーションの不足やルールの強制が顕著な家庭(機能不全家庭)で育った人を指すようになった。
つまりアダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー(Adult Children of Disfunctional Family)である。
アダルト・チャイルドは「自分の欲求がよくわからない」「ありのままの自分で良いと思えない」「自分が大切な存在だと思えない」といった自己の喪失や自己否定感を持ちやすいという。

僕は機能不全家庭の子供だった

私の生家が結構機能不全な家庭であったことは以前に書いた。
強権的で癇癪持ちの父と妄想癖で嫉妬深い祖母に気を使う必要があり、私は家の中に諍いが起きないよう気をもんで過ごした(あるいは今でも気をもんでいるのだと思う)。
そして、長子の私は、自分の誕生が母をそのような家庭に縛り付け笑顔を奪った原因なのではないかと心の奥で考えていた。
全てを生育環境に帰責するのはフェアではないが、「人を信じられない」「弱音を吐けない」「頼みごとが苦手」「他人の顔色をうかがってしまう」「音に敏感」といった私の形質は生育環境に依る部分が小さくないと思う。
こちらのサイトにあるように、同じように感じる機能不全家庭の出身者も多い。
リンク:会話のネタ速報 日常的な両親の喧嘩が子供に与える影響とは? http://muravillage.com/ryousinkenka-kodomo-1760

自分の過去と向き合うために

私は、自分の生き難さの原因が生育環境にあり、同じような理由で苦しんでいる人がいると分かっただけで、ずいぶんと救われた気がする。
とはいえ、一般論を知るだけでは不十分だ。
過去は変えることが出来ないし、気の持ち方で今から別人になれると考えるには、私たちはこの問題と長く付き合いすぎている。
切り裂かれるようにつらくても、自分の過去と向き合う必要があるのではないか。
結局私は、以下の本のワークを自分でやってみた。
アダルト・チャイルドが自分と向きあう本(編集:アスク・ヒューマン・ケア研修相談センター、出版:アスク・ヒューマン・ケア)
アダルト・チャイルドが自分と向きあう本 [単行本]
(発行元はアルコール依存症に関する情報提供等を行うNPOを母体とした出版社)

本書では、以下のようなワークが紹介されている。
・原家族にあった問題と無言のルールを明らかにする
・子供の頃の自分にとって不安だったことを振り返りそれを癒やす
・子供の頃の自分の家庭内における役割を振り返る
・自分が原家族で獲得したルールを新しいルールに置き換える
・幼少期から思春期の癒やされていない悲しみを発見し誰かと分かち合う
率直に言って、一つ一つがとても重く感じた
140ページにも満たない本だが、余白に自分の回答を書き込みながら読んだため、読了後は疲れ切っていた(途中で吐き気もした)。
本の中でも書かれているが、不安定な状況では避けたほうがいいし、可能なら信頼できる援助者と共にやるべきだ。

だが報酬は十分にあった。
例えば以下のことは、実際に言語にして初めてわかった。
・強制されたルールについて
私の生家の共依存のルールは「問題について話すな」「従え(従うまで不機嫌になる)」というものだった。
だから、大人になっても仕事でこのような場面に出くわすと狼狽していた
・自分の役割
私は家族の中の自分の役割を「しっかりした子(ヒーロー)」で「世話焼き(ケア・テイカー)」だと思っていたのだが、実際は「おとなしくて面倒をかけない子(ロスト・チャイルド)」だったのかもしれない。
問題を起こさないことが第一であり、自分が主張すると周りが不機嫌になると思っていたのだ。
そして、この主張しなさ、勇気のなさによる不作為が、結果として祖母の妄執に加担し母に手間や苦労をかけたことがある。
私の加害意識の根っこを見つけた気がした。
・承認と報酬
私はあまり褒められたことがなく、家族に信頼されていないと感じていた。
たぶん、運動神経が鈍く転んで傷を作ることが多く、いじめられたこともあるため、家族の中で私はずっと「弱い保護すべき対象」だとみなされていたのだろう。
そして、勉強だけは昔から得意だったが、それで褒められたことは無かった。
それゆえ、大人になっても他者からの承認と報酬を過度に求める傾向にあったように思う。
仕事が順調なうちは、家庭では不十分だった承認も報酬も十分に受け取ることが出来たのだ。
だが、これは共依存の場所を変えただけだ。

鎖を解き放つ

「過去の自分がほしかったものは、今の親からもらう必要はないのです。仲間や、そして何よりあなた自身が、それを与えてあげることができます。」
上記の本の終盤に書かれていた言葉だ。
自分を縛る鎖を見つけたら、そこから解き放たれよう。
親との間に境界線を引いて、自分の欲求を満たしてあげよう。 
そのように考えることで、しがらみから一つ解放された気がした。
 
困難かもしれないが、生きているうちに家族を愛せるようになりたいと、少しだけ考えるようになった。
うまく出来るか分からないが、私の家庭の悪役達もそれぞれの生き難さがあり、それゆえ選択肢が少なかった人たちなのだと考えてみようかと思った。
そのためには、やはり自分が鎖から解き放たれなくてはいけない。

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関連記事:「人を信じられない病-信頼障害としてのアディクション」の書評
依存症の背景に生育環境に起因する生き難さがあり、人間不信ゆえにモノに頼る傾向があるのではないかと指摘する本を紹介した記事です。


記事で参照している本です。ワークは結構キツイので、文中の注意(うつや依存症から回復途上にある時は避ける、援助者とやる)に従ってやった方がいいです。

古い本ですが、アダルト・チャイルドの実例(著者の臨床例をもとにしたフィクション)が多く紹介されており、回復に向けたステップも示されています。アルコール依存に的を絞っていますが、他の機能不全についても当てはまる部分は多いと思います。

関連記事で紹介している本です。生育環境→人間不信→物への依存という構図は説得力がありました。ただ、回復のために取るべき方法はあまり書かれていないです。

うつで休んでいる間、自分の感じる生き難さについてずっと考えていた。
決定的な答えはなかなか出ないのだが、掲題のエントリーで自分にとって有用だった考え方を紹介して行きたい。
「会社勤めが辛い」「人間嫌い/人間不信で他人とのコミュニケーションが苦痛だ」「家族が苦手だ」「働いてまで生きたくない」といった私と同じ悩みを抱える方々の一助になれば嬉しい。

私の構造と社会の構造

初めから意図していたわけではないのだが、結果的に私の取ったアプローチは、自分と社会の構造を考えることだった。
「自分の構造」というのは、自分が感じる辛さは環境や人間の本能に起因するということだ。
アダルト・チルドレン、進化心理学などの考え方が参考になった。
「社会の構造」というのは、社会のシステムや常識や行動様態の一部は、人間に苦悩を与えるということだ。
ここでは資本主義を巡る議論(分業、競争、分配、不平等)と、フーコーの哲学が参考になった。
こうして、自分と社会の構造を客観化することで、個別の苦悩や抑うつを引いた目で見られるようになった。
また、苦悩や抑うつを客観視するための手段として、認知療法のアプローチを覚えた。

言うなればこれらは「健全な他者転嫁」を行うためのフレームワークづくりだ。
自分の一部を、生育環境やヒトという種族の問題として切り離す。
また、苦悩の一因が社会の土台の部分にあることを認めて、自分の対処可能な問題から切り離す。
ただし、ここで自分の全てを制御不能なものとして切り離してはいけないし、社会のすべてを自分には対処不能なものとして諦めてもいけない。
全てを他者転嫁した後に待っているのは、自分にできることは何もないという絶望だけだ。

うちなるカウンセラー

心理学者の諸富祥彦氏は『生きるのがつらい』(平凡社新書)というストレートなタイトルの本を書いている。
論理療法や内観法といった臨床心理学のアプローチを紹介し、「生きるのが辛い」という感情に対してどのように対処するのかを述べた実践的な本だ。
同書では、最終目的は自分のつらさを客観視して助言できる「うちなるセラピスト」を作ることだと述べられている。
私はこれを目指した。
ただ、自分で自分に癒やしを与えるというのはこそばゆい感じがするので「うちなるカウンセラー」を作ることにしたのだ。


少しずつまとめて行きたいと思うので、よろしくお付き合いください。



遠藤周作原作の『沈黙ーサイレンスー』の映画を見た。
メインテーマの「神と信仰」だけではなく日本人論にも繋がる内容であり、出演者の演技にも熱が入っていた。
長くて重くて視聴後にしんどさが残る内容だったが、見てよかったと思う。
虐げられた弱い人々が神にすがる。
迫害を受け弱さ故に信仰を捨てる。
神と他人を裏切りそれでも許しを求める弱さ。
敬虔な信仰を持たない者の一人として、私は長らく、人間が「弱さ」ゆえに神を必要としたのだろうと単純に考えていた。
しかし、信仰を求めるのも信仰を捨てるのも人間の弱さから生じる。
弱さ故にすがった神であっても、祈りを捧げるうちにいつしか自分の精神を構成する一部分となり、それを自分の内側に維持し続けるには強さが必要になる。
そんなことを考えた。

私が、遠藤周作の著作で読んだのは『海と毒薬』『悲しみの歌』『深い河』 の3作だけだ。
この中では、私は『悲しみの歌』に一番衝撃を受けた。
あまり知られていないのだが『海と毒薬』の続編にあたる作品であり、しかも『海と毒薬』よりもずっと長い。
少し前に「悲しい物語に感情移入しすぎて辛くなってしまうことがある」という旨のことを書いた。
関連記事:繊細なシミュレーション装置は悲しい物語を嫌う
『悲しみの歌』はまさにそのような作品だ。
(ネタバレ上等の方はWikipediaに結末まであらすじが書いてあります
リンク:Wikipedia 悲しみの歌
私が正論を振りかざす人間や苦悩と無縁そうな人間を引いた目で見るようになったのはこの作品の影響かもしれない。
また、その一方で、どんな人間でも悲しい物語を持って生きているのかもしれず、それゆえに一方的な断罪はフェアではないとも考えるようになった。
カントは人間は理性の持ち主ゆえに尊敬に値すると言ったが、私は人間は悲しい物語の持ち主だからこそ尊敬に値するのだと思う。
(まぁ本当に苦悩や悲しみと無縁の人間もいることはいるんだろうけど。)

全能の神は人に対して沈黙を貫く。
弱さゆえに人は神の言葉を語る。
弱さゆえに人は悲しみの歌を歌う。
悲しみの歌が聞こえなくなる場所を楽園とか天国と呼ぶのだろうか。

 

最近、流行ってた時期に読もうとして挫折したマイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』を読んだ。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) [文庫]
 
同書は、正義に関わる価値観として幸福、自由、美徳の3つを挙げて、それぞれに関する思想を辿るような構成になっている。
例えば、幸福という軸ではベンサムなどの功利主義が紹介され、自由という軸ではリバタリアニズムやカント(以前の挫折の原因)が登場する。
その中の自由に関する議論では、格差と再分配が取り扱われている。

経済的な便益について考える場合、自由と平等は相反する価値だ(「経済的」以外の観点だと、「基本的に」相反する価値だ)。
自由に重きを置けば政府による所得の再分配は強制労働に類するものとして排除すべきだし、平等に重きを置けば格差の是正として政府による富の再分配が求められる。
再分配については、私の中には相反する2つの感情があり、それぞれが私の属性に還元できる。
市民(現役世代・平均よりいくらか上の所得層)としての私は再分配を否定したいし、相続財産を持たない者としては再分配を求めたい。

市民としての私

だいたい給与の24%ぐらいが源泉徴収される。
税が公共サービスの運営に必要だということは理解できるし、病気になることもあるので健康保険料の恩恵にもあずかっている。
もちろん、手放しで許容できるわけではない。
特に高齢者医療のために組合・協会健保(現役世代)から国民健康保険にかなりの金が流れている点はもっと意識されるべきだ。
(こちらのサイトの解説が詳しくためになった
(健保連の公表資料はこちら

ただ、一番納得いかないのは年金だ。
給付水準が下がることが予想される制度に無理矢理入らされ、自分の拠出した金が高齢者のために使われると言うのは腹立たしい。
よく、年金について「還ってくる」という表現が使われるが、積立方式ではなく賦課方式の年金では正しくない
我々から取り立てられた保険料は、現在の高齢者への給付に「使われている」のだ。
我々の世代への給付は、あくまで私達が受給者になった時の年金財政によって決まる。
面白いことに、ロンドン・ビジネス・スクールのリンダ・グラットンも投資銀行OBの藤沢数希も、先進諸国の年金制度の現状はねずみ講(ポンツィ・スキーム)だと指摘してた。
また、厚生年金の基礎年金部分と国民年金は財源を共有している(橘玲が著書で指摘していた)。
すなわち、給与所得者で厚生年金に加入している場合でも、未納率が極めて高い国民年金とちゃんぽんされているのだ。
(おそらく6ページ目の厚生年金歳出の「基礎年金給付費等基礎年金勘定へ繰入」がそうだろう。

以前書いたが、日本では少子高齢化で2003年に社会保障制度改革の最終電車は出発している。
(50歳以上の人口が有権者で多数派になると社会保障制度を縮小する方向での見直しは不可能になるということ。)
関連記事:橘玲「お金持ちになれる黄金の羽根の広い方」の感想文(後編) 
私たちは所得の続く限り、このネズミ講に付き合い、自分たちより幼い世代を巻き込んでいかないといけない。

相続財産を持たないものとしての私

大学に入って、周りに裕福な家庭の子女が多くてとても驚いた。
上場企業勤務、大学教員、はては政治家の子供もいた。
また、働くようになると、親世代が収益不動産を保有していたりする人が何人かいてさらに驚いた。
年収100万円生活の著者は、持ち家と相続した収益不動産(賃貸マンション)があるのでそもそも自分とは前提の違う人だった。
書評は書いたけど、実はむかつきながら読んだ。
関連記事:山崎寿人「年収100万円からの豊かな節約生活術」の感想文 
私が親世代から相続できそうなものは対応に困る田舎の一軒家くらいなのだから。

ピケティの「21世紀の資本」では、世代間の格差より同世代の中の格差が問題視されている(「21世紀の資本」は読んでいないがアゴラの池田信夫氏の解説書で読んだ)。
その理由は、世代内の格差は相続を通じて再生産されるからとのことだ。
確かに、世代内の格差のほうがより本源的な問題だとは思う。
相続財産が無い貧しい家に生まれても、教育や医療において優れた公共財の恩恵を受けられれば機会の平等はある程度担保される。
ただ、「親世代から引き継ぐ資産」という個々人の資質や人格から離れたものに大きな差があるというのは、感情的にどうしてもひっかかる。
持たざる家庭に産み落とされた者としては、相続税率の引き上げや資産規模に非対称的(富裕層ほど利用しやすい)な節税手段を潰すなどの対応も期待したいのだ。


結局のところ私は、一方ではフリードマンを支持し、もう一方ではマルクスに救いを求めている。

 
 




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