帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

誰かに向かって「生きろ」と言うのは「死ね」と言うのと同じくらい暴力的だと思う。
辛いことがあっても最悪死ねばよいというのは私にとって救いだからだ。

「親が悲しむから生きろ」とか
「友人が悲しむから生きろ」とか
「そんなことに負けてどうする、生きろ」とか
そのような一般的な助言をされるよりは「今が辛くても幸せでも死んだら全て終わりになる」と考える方が気楽で、逆説的だが生きることに肯定的になれる

「生きろ」と言われるのが苦痛に感じる理由は2つある。
1つは自分の瑕疵を責められているように感じるからだ。
「生きろ」と言われると、
「生きることに肯定的でなければならない」
「人生は幸福でなければならない」
というような価値観を押し付けられているような気分になる。
そのように考えられない自分は欠陥を負っており、それを克服しなければならないような焦燥に駆られる。

2つ目は、生きることに肯定的になれない自分を惨めに感じるからだ。
世間の多くの人間は死ぬよりも生きる方が良いと考える。
すなわち彼らは、生きることには価値があり、少なからず幸福を感じているということだ。
それと比べる自分が惨めに思えるのだ。

とはいえ、死は不可逆的だから実際に死んでしまうと取り返しがつかない。
(時間が巻き戻らない以上、本当は生も不可逆的なのかもしれないけれど。)
坂口恭平『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動だ」と言っている。
希死念慮に対して感情的に怒ったり悲しんだりすると、本当に死んでしまう。
部品が摩耗して休止か交換を訴えているのだと考えて、機械が故障したときのように、電源を止めて故障を観察すればよい。
そのように述べている。
なぜ生きなければいけないのかという理由は語らないが、この考え方は押し付けがましくなくて好きだ。


タイトル:孤独の価値
著者:森博嗣
出版社:幻冬舎新書

作家の森博嗣氏のエッセイ。
孤独について、著者自身が常々考えていることを述べられている。
私は『すべてがFになる』『スカイクロウラ』も読んだことがない。
ただ、カバーに書かれていた「『孤独』を忌避する考え方は、マスコミや絆を売り物にしたい側の誇張によりもたらされている」という主張に我が意を得たりという思いがして衝動買いしてしまった。
孤独を嫌う人を対象に書かれているので、私のように一人でいるのが好きな人間は「そんなことは分かってるよ」と感じる点も結構あった。
私と同類の方は、「一人でいるのが好きな自分」を肯定するための材料として読んでいくと元気が出ると思う。

ステレオタイプの感動

本書では、映画やドラマといったエンターテイメントが、感動に訴えやすい「家族愛」「仲間との絆」を題材とした作品を作りがちであり、あたかもそれらが絶対的な価値観であるかのように錯覚させていると指摘する。
そして、人類において少数派であったとしても、仲間や家族が人生のトッププライオリティでなくても異常ではないし、家族や仲間がいなくとも、芸術や学問のように人生を捧げるべきものを持っている人間は豊かで自由だと述べる。

考えてみれば、私は「家族は愛さなければならない」「友人が少ないと人間的に劣っている」という刷り込みに多分に惑わされてきた。
小学校でも「道徳」(この科目はいつ見ても意味不明)の授業でこれらの価値観を繰り返し刷り込まれ、行動評価の項目にもなっている。
以前に友人と意気投合したのだが「1年生になったら」の歌は暴力的でグロテスクだ(別にひでが歌ってたからじゃないよ)。
一年生になったら  一年生になったら ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな  富士山の上で おにぎりを
「友人は多いほど良い」「友人と一緒に何かをするのは楽しい」という価値観を押し付ける。
他人といると疲れてしまう人は異常なのだろうか、一人で行動することを好む人間は劣等なのだろうか
この歌を覚えた児童の一部は、後の人生でこのような煩悶に出くわしているのではないか。

人間は無意識に孤独を求めている

本書の終盤で、孤独を忌避する考え方はメディアや経済界が生み出した虚構であると、多くの人がすでに気づいていると述べられている。
結婚しない、または子供を持たないという選択肢をとる人間が増えたのは、社会制度の不備だけが原因ではない。
「社会的な押し付けが無ければ一人でいたい」という人間が、素直にそのような人生を生きるようになったのだ。
田舎から都会への人口流入が止まらないのは、都会では一人暮らしや核家族が許容されるからだ。
高い住居費や子育ての不自由さがあっても、生家からの自由にそれ以上の価値を置くからだ。
そのように述べる。
以前に世帯数の数字を見たときに2世帯同居の崩壊と核家族・単身世帯の増加に言及したが、社会的な強制が無くなれば、イエは自由を求めてどんどん小規模になるのかもしれない。
リンク: 日本の世帯数の30年前との比較と若干の考察 

都市の生活は孤独と自由を与えてくれる。
人々は隣人に無関心でいてくれる。
コミュニケーションを取らずともシステマティックにモノやサービスを提供してくれる店が多い。
宅配便以外の来客はオートロックで拒めばよい。
私もまた、都会のもたらす孤独に大変心地よく漬かっている人間の一人だ。

2か月くらい前に、パソコンを買い替えた。
マウスでBTOしたのだが、当初の想定よりもモリモリの構成になってしまった。
多少予算オーバーだったが、おかげで快適に使えている。

それまでの6年弱はONKYO製のデスクトップPCを使っていた。
システムの動作は問題なかったが、電源ユニットから異音がするようになった。
電源ユニットを換装することも考えたのだが、スリムケース用のTFX電源はリテール向けがあまり売られていなく、相応に使い倒したという気持ちもあったので買い替えることにした。

オンキョーのPC事業について

オンキョーがパソコンを作っていたことを知らない方もいるかもしれない。
だが、旧SOTECと言えばピンとくるのではないだろうか。
パソコンの普及期に低価格PCでそれなりのプレゼンスを持っていたソーテックを、オンキョーは2008年に吸収合併している。
それ以降、低価格だけど低品質というソーテックのイメージを刷新すべく、SOTECブランドからONKYOブランドに一本化し、倉吉市のオンキョーの鳥取工場での国内組み立てを売りにしたモデルを作るようになった。

なお、ONKYOのPC事業については2012年に量販店向けの販売を止めて、現在ではダイレクトサイトでなぜかタブレットPCのみを売っている状況である。
(リンク: ONKYO Digital Solutions
有価証券報告書のセグメント区分でも、PC事業は家庭用電化製品と共に「その他」扱いであり、ほぼ撤退に近いレベルまで縮小済みと思料される。

私が使っていたのは以下のモデル
メーカーサイト:ONKYO S711
写真
 ONKYO S711A8

CPUが第1世代Core i7の下のモデル(ベンチマークだと第6世代(Skylake)のCore i3くらい)、メモリは6GB、HDD1TB、ロープロファイルの安価なGPU(グラボ)付。
メーカーサイトにあるように、付属ディスプレイは大型のスピーカーがついており、結構音が良かった。
また、一度も使ったことがなかったが、光デジタルの音声アウトプットが付いていた。
それなりに高スペックだが、当時はNECや富士通(奇しくも今は両方レノボ)よりは割安感があった。

6年間の思い出

実はこのパソコンは、最初の2年でGPUとHDDを1回ずつ換装している。
GPUは使って1年半くらいでファンからカラカラと異音がするようになった
外してしまおうかとも思ったが、同じGPUを使ったファンレスのモデルが比較的安く手に入ったので取り替えることにした。
HDDはちょうど2年くらい使ったところで、ブルースクリーンが頻出するようになった
当時は煙草を吸っていたのもいけなかったのだと思う。
ほどなく煙草をやめたこともあり、それ以降は今般の電源ユニットの異音まで問題なく使えていた。

そんなこんなで旧PCは結構中をいじったのだが、率直に言ってスリムケースはしんどいなと思った。
私が使っていたPCのケースは前部分が開くタイプだったのでいくらかマシだったが、それでもパーツと配線がギッシリで埃がたまりやすいことには変わりなく、開けるたびに憂鬱な気分になった。

写真(向かって上が背面で下が前面)
inside PC



言い訳になるが、当時は量販店で売られているデスクトップPCの8割方は国内メーカー製のスリムケースだったように思う。
会社でもHPのスリムタワーが多かったので、当時の私からすればデスクトップPC=スリムタワーだったのだ。

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今まで購入したPCで最も長期間使用したので、当記事をもってお焚き上げとしたい。
もし以前にONKYO製PCを使っていた人が何かの拍子にこの記事を目にして懐かしんでくれれば私も嬉しい。

 

常々、憎悪や嫉妬といったマイナスの感情と親友になりたいと考えていた。
これらの感情は方向はマイナスだが、とても強い感情だ。
憎悪や嫉妬をモチベーションにすることで、他者に打ち勝ったり、自分を高めることができればそれはとても素晴らしいことだと考えていた。
マイナスな感情に蓋をして、そのように考える自分は劣等な人間であると自分を責めるよりは、外界と戦い自分を高めるための原動力とする方が良いと思う。
綺麗ごとを語る者達はマイナスな感情を悪しきものとして排除しようとするが、俺はお前たちと共に生きるぞ。
そのように考えていた。



ちょっと前から、マイナスの感情を行動を拠り所にするのはやっぱり良くない面もあるなと考えるようになった。
なぜかというと、反応的だからだ。
「反応的」という考え方は、以前に読んだコヴィーの『七つの習慣』で知った。
コヴィーは、第一の習慣として『主体性を発揮する』ということを挙げ、人は誰しも、外界からの刺激とそれに対する自分の反応の間に選択の自由を持っていると説く。
そして、外界からの刺激に対応するスタンスとして、「自分の価値観に基づき行動する」態度を主体的であるとし、「その時折の感情、条件付け、環境などに左右される」態度を反応的であるとする。

こんな下品な人間は大嫌いだ。
金持ちに生まれて何の苦労もせずに生きてきた人間が妬ましい。
幸福な家庭で育った人間が羨ましい。

これらの感情は、仕事や学問において時に強力なモチベーションになる。
ただ、外界からの強烈な刺激をエネルギーに転換しているので、引き出される行動は反応的なものになりがちだ。
それが本当に自分が求めていることなのかは良く考えないといけないと思う。


嫌いな人間に打ち勝つために仕事や学問を頑張るとする。
→その過程で自分が当初やりたかったことを見失っていないか。

自分よりも幸福な人間を妬み金銭的な成功や幸福な家庭を得ようとする。
→自分の幸福が本当に金銭や家庭にあるのか考える必要はないだろうか。両方とも、得難く失いやすいものだ。

 マイナスな感情であっても排除せず、共に生きたいと思う。
だが、流されて反応的にならないこともよく覚えておきたい。

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皆様、本年もよろしくお願いいたします。 
 

実家があまり好きじゃないけど、盆と正月は一応顔を出しているという人も結構いると思う。
正月帰省すると言うと同僚などからは「ゆっくりして来てね」と言われることが多いがとんでもない。
一人で過ごすほうがよっぽどゆっくりできる。
ここで顔を見せておくと一年の残りの日々は生家から距離を置いて過ごせるので、ただただそのために帰省している。

滞在時間が短くても顔を見せてる印象を作れること

金融業界だと会社の休日は基本的にカレンダー通りだ。
事業会社に勤務する友人に言うと驚かれることもあるが、盆休みは無いし土日に被らなければ年末は12月30日まで仕事だ。
証券取引所も開いているし、日銀ネットも稼働している。
(業界としては繁忙な時期ではないので有休を取得する人もそれなりにいる。それはまた別の話。)
盆は近くの土日だけ戻る。正月は31日の午後に着いて2日の夜には発つ。
こうすると、滞在時間は実は少なくて済むが、その割にちゃんと帰省しているような印象を作れる。
「たまには帰ってこい」というような対処に困る連絡を受ける可能性を減らすことができるだろう。

厄介ごとが起きてないか確認するため

病気や犯罪や人間関係の厄介ごとが起こっていないか半年に一回くらいは確認しておいたほうが良いのではないかと考えている。
詐欺師が入り込んでいるかもしれないし、宗教にはまっている人間がいるかもしれないし、壺を買わされているかもしれない。
大きなトラブルになると年に2回帰省するよりももっとしんどいので、定期的な監視をしておいた方が安心なのだ。
捨てるのが難しいので定期的にメンテナンスするような感覚だ。 
認知の歪みもあるが、私は自分の家族は自分に対して厄介ごとを起こす気を許してはいけない存在として見ている。

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従って、盆と年末年始の帰省は費用対効果に優れリスク管理上も意義のある行為だと思います。
別に楽しくなくても上記の理由からとりあえず顔を出してくるという人を当ブログは応援します。

本年はお世話になりました。
良いお年をお迎えください。

 

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