2年前に、身の回りのモノを整理したいと思った。
当時も今も賃貸で部屋を借りているため、使ってないものを保有するためのスペースにもお金を払っていることに矛盾を感じたのが発端だ。
(鬱状態だった時はお金を使えなかったのだが、こういう考え方はその延長だと思う。)
 
とりあえず近藤麻理恵さんの「人生がときめく片づけの魔法」を読んだ。
去年話題になっていたが、この本は米国でも大変売れているらしい。
アメリカ人は家が広いからスペースの限りものをため込んでしまうのかな。
気持ちは分からないでもない。
私の生家もその節がある。

服と本はかなり捨てた。
働くようになってから転勤も転職もしているので引っ越しのたびに整理してきたつもりだったのだが、捨てても支障のないものが多かった。
この点、ときめくかどうかという基準は大変役に立った。
体系が合わなくなっていた服(いつか痩せると思ってた)、勝った後何回か着て失敗だと思った服(痛んではいないのでシーズンに2,3回申し訳程度に着ていた)、痛んでいるが部屋着に出来る服
、本棚に置いておくと賢そうに見える本(本を残す基準がそれだった)

ブレイクスルーだと思ったのが以下の品だ。
①年賀状・手紙⇒住所録をExcelで作って全部捨てた。
②人からのもらいもので使ってないもの⇒比較的どうでもいい人からもらったものばかり残っていた。土産物とか。
③服についてくる予備のボタンと接ぎ当て用の布⇒ボタンが取れただけでは捨てたくないコートのボタンだけ残して後は捨てた。繕ってまで着ないだろう。
④書類⇒クレジットカードの請求書、給与明細等の勤務関係の書類、公共料金の検針票などなど。几帳面にファイリングして取っておいた。最初の勤務先の金融機関で覚えた技だ。税務等に関係しそうな書類だけスキャンしてデータで保存して後は捨てた。

私は持ち物を減らしてとても快適になったのだが、最近見るネットの記事だと、行きすぎたミニマリストを痛い人として取り上げるものも多い。
共通しているのは、家族のものを勝手に捨ててしまうことはアカンということ。
これは当たり前だ。
価値観の押し売りで他人の所有権を侵害している。
家族でも別の個体だ。

もうひとつは、効率性や満足を捨象して、捨てることが目的になってしまう人は痛いということ。
例えば、ピーラーはあれば大変便利だが、良く切れる包丁と包丁を使う技能があれば無くても皮は剥ける。
ただ、ピーラーを使うより短時間で包丁できれいに皮を剥ける人はそんなに多くないだろう。
また、昨今のスマートフォンのカメラがどれほど高性能になったとしても、単品のカメラを完全に代替できない。
絞りやシャッタースピードの設定しかり、光学ズームレンズの使用しかり、写真を撮る行為に自分の恣意性を介在させようとするには、スマートフォンのカメラアプリと単焦点のレンズだけでは限界があると思う。

人生という有限のリソースの利用にあたって、作業に係る時間を短縮したり、密度の高い行動を可能にしてくれる道具は非常に有用だ。
面白くない結論になってしまうが、捨てれない病も捨てたい病も行きすぎると良くない。