英国の労働者階級を主人公とした著作で有名なアラン・シリトーの作品に「土曜の午後」という短編がある(新潮文庫版の『長距離走者の孤独』に収録されている。)。
とても短い物語だが、一言で言うと「男が自殺するところを少年が見る」という内容だ。
天井にかけた首吊りの紐が男の重さに耐えられず、男は一度自殺に失敗する。
そこに騒動を聞きつけてやってきた警察官が現れ、男を自殺未遂の罪で捕縛する。

--うん?、ここでふと話の筋と関係ないことで思考が止まった。
どうやら、20世紀初頭の英国では自殺未遂は犯罪であったようだ。

なぜ殺人は罰せられるのか。
それはひとえに、国民の多くが殺人者を罰したいと考えているからだ。
他の法と同じように、国民の総意であるからこそ、立法府でそのような法律が作られた。
そして現在も支持されているからこそ、改廃されずに残っている。
ただ、よく出てくる議論だが「自分が殺されたくないと考える人が多い」とした場合、同意殺人や自殺幇助が刑法犯になる理屈がうまく説明できない。
「命は損われてほしくないと考える人が多い」というのがより真実に近いのかもしれない。

では、刑罰の問題から一歩進み、なぜ人を殺してはいけないのか。

私はこの理由は「不可逆性」にあると考えていた。
現代の医学では死んだ人間を生き返らせることは不可能だ。

例えば、科学の発展とともに、記憶をデータとしてバックアップし、クローン技術で作った肉体に与えることで、バックアップ時点の人間を完全に再現することが可能になるとする(SFあるある。)。
そうなると、オリジナルの肉体を破壊する行為(現在の殺人)の価値は今よりも下がると考えられる。
生命を不可逆的に毀損したのではなくなり、再現に必要な費用と時間の負担の問題になるからだ。
あるいは、蘇生・再現が不可能な状態が死だとすると、設例にあるような未来では、オリジナルの肉体の破壊は殺人とはみなされないのかもしれない。

厳密に考えると、生命とはそもそも何か、また、傷害により身体の一部を不可逆的に毀損された場合との区別は何に依るのかなど、議論の種はいくらでもある。
漠然とした言葉でお茶を濁すと、人間の人生の残り時間を(本人も含めた)人が決定することについて、我々は違和感を持つということなのかもしれない。
死から逃れられないからこそ、それを人意により決定されることを嫌った。
そしてそれを専売特許とするものとして神を必要とした。
案外とそんなところかもしれない。

文庫で14ページ余りの短い文章を読み終えた後で、しばらくそんなことを考えていた。

長距離走者の孤独 (新潮文庫)
アラン シリトー
新潮社
1973-09-03