ユニクロの広告やファッション雑誌は狡猾だ。
シンプルで外連味のない服であっても、外国人モデルが着ればかっこよく見える。
特色のある傾いたデザインの服であってもそうだ。
 
服を買ったがイメージと違ったという経験は誰しもあるだろう。
おそらくその大部分が、モデルが着れば格好いいが自分が着ても凡庸だということに起因するのではないか。
つまり、その服が悪かったわけではなくて、自分の顔が見たモデルのように変わるという錯覚に陥っていたからだ。
他の服なら良かったと言うことではない。

中学、高校、大学までの時分に、髪型や整髪剤に凝った方も多いと思う。
髪型も服と同じ要素がある。
顔まで変わるのではないかという錯覚を与える。

残念なことに、どんなに服を選んでも顔は変えることが出来ない。
どんなに髪型をいじっても顔は変えることが出来ない。
髪型や服装で雰囲気はかなり変わるが、顔は変わらない。

私はそのことに30まで気が付かなかった。
気に入らない自分の顔の代償として、小綺麗な服や髪型を求めた。
頭の中で結んだ自分の像を見誤り、滑稽な様相になったこともある。
顔の見た目を変えるのであれば、化粧をするか整形手術をするしかない。
女ならもっと早くに気づいたであろう単純な事実に気がつくのにずいぶんと時間がかかった。

太宰の短編に『おしゃれ童子』という作品がある。
瀟洒典雅を旨とし、奇抜なおしゃれにより時に周りから嗤われる少年の話だ。
(『津軽』の中で青森市を語るために引用されている。)
この少年のおしゃれへのこだわりは自信の美意識の表現だったのだろう。
それとは対照的に、私のお洒落は自分の顔に対する嫌悪の発露であったのだ。


おしゃれ童子も津軽も青空文庫で読める。
津軽は地名や太宰の著作への言及もあるので注釈のある文庫版が読みやすかった。

津軽 (新潮文庫)
太宰 治
新潮社
2004-06