自然災害が発生した時は、せいぜい数千円から1万円の範囲だが寄付をしている。
最初にやったのは東日本大震災の時だった。
ケチな自分にしては珍しいのだが、それ以外に何も出来ない自分に憤りを感じての行動だ。

この話を当時の職場の人間や生家の家族にしたら驚かれた。
みな口をそろえて、「もうちょっと余裕があればしたいのだけれど」と言っていた。
この言葉に嘘は無いのだろう。
彼らには自分と違って養うべき家族がいるし、差し迫った老後への不安がある。

だが、現代社会に生きる我々にとって、よほどエッジの効いた生き方をしているのでもない限り、生活に「余裕」が出来ることはありえない。
高齢社会の現代においては、平均的に生きているだけでは自分の所得により老後の安定を確約するだけの資産は築けない。
「自分の老後の安定を確保した上で、それでも余裕があれば他人に施す」という考え方だと、大多数の人間は生涯他人に施すほどの余裕は生まれないのだ。

所得の再分配は国家の機能である。
寄付や慈善活動はやりたいやつが自分の満足のためだけにすればいいと思う。
ただ、自分の吝嗇と向かい合うことをせず、「余裕が無い」の一言で片付けることにも疑問を感じたのだ。

沢木耕太郎の深夜特急で、シルクロードのあたりで乗り合わせたオランダの青年のエピソードが書かれている。
その青年は無一文に近かった。
なけなしの金を前払いして、中央アジアから欧州まで走る長距離バスに乗り込んだ。
食事休憩の時も飯を食わずチャイを飲むだけ。
ただ、同乗者に勧められればありがたく食事をごちそうになる。
そのような旅人だった。
そんな無一文な旅人が、ある日現地の物乞いの少年少女に施しをせがまれる。
旅人は、おそらく彼の全財産である硬貨を手のひらに広げ、その場にいた2人の少年少女と彼で等分した。
筆者はそれに衝撃を受ける。
自分は、長い旅の途中であるがゆえに、節約する必要から物乞いに施しをしなかった。
だがそれは、結局のところ自分の吝嗇に理由をつけていただけなのではないか、と。

寄付なんてしたい人だけがすればいい。
だが、吝嗇と向き合うことを、どうか避けないで欲しい。
人類の成し遂げたイノベーションの多くが、有限のリソースの配分を考える時に生まれてきたのではないだろうか。


※『深夜特急は』文庫だと6分冊ですが、下の全集版だと1冊にまとまっています。
私は最初に文庫で読み、本書の刊行にあたってこれも買いました。
本編の原型にあたる『深夜特急ノート』も収録されています。