これまで、労働観の変化生命維持のための人生の切り売りについていろいろ考えてきた。
これらの考えにより、自分の苦悩の深いところに近づけたとは思うのだが、100%の回答ではなかった。
そんなある日、ふと気がついた。
結局のところ、俺はやる気がなくなってしまったのだ、と。

人が労働に耐えるのは、何のためだろうか。
思いつくのは、金、世間体、自己実現
それらのどれにも執着がなくなった。
いや、執着しないことが自分の幸福だと気付いた。
労働に耐える理由が、無くなってしまった。

私が金を欲していたのは、金は自由をもたらすからだ。
生命維持の為に必要なものは全て金で買うことが出来る。
人生を豊かにするものも9割は金で買うことが出来る。

だが、自由をもたらすはずの金を手にするために、多大な不自由を甘受しているのも事実だ。
少なくとも労働の対価として金を得るというやり方は私にとって不自由極まりない。
結局、自由を得るために自由を失うという大きな矛盾に気がついてしまった。
労働をしてまで生きる価値は無いという考えに至ったのだ。
「金を稼ぐモチベーション」が無くなってしまった。 

世間体

私はずっと他人が怖かった。
弱みを見せればそれにつけ入り、どこまでも搾取しようとする人の狡猾さを畏れた。
世間体や肩書は、他人に弱みを見せないためには極めて有用だ。
一流とされる企業の社員であれば、知能も能力も高いという推量で以って見られる。
資金調達や契約におけるクレジットでも困ることは無い。
また、生身の自分が誰かに愛されうるという自信をついぞ持てなかったがために、自分を覆う優れた鎧を求めた。
肩書や収入で評価されるのを嫌悪しながら、それを取り去った自分に人を惹きつけるものが無いという逆説を抱えていた。

いつしかそのように他人の評価を気にすることに疲れてしまった。
孤独を嫌う人間と孤独でなければ生きられない人間がいて、自分は後者であることに気がついてしまった。
隠遁し、交易を断つことを嗜好するようになっていた。
「他人に良く思われようとする気」が無くなってしまった。

自己実現

資本にも才能にも乏しい人間にとって、会社で働くことは最も効率の良い自己実現の手段だ。
蓄積された資金・経営資源と、法務・労務・バックオフィスといった共通のインフラがあることによって、自分のタスクに専念できる。
多くの人間が自分のタスクに専念した結果として、個人では出来ない規模の取引やイノベーションに繋がる。
ごく公平に言って、私は働くようになってから、この組織のもたらすメリットを享受してきた。
大型の投融資案件にも関わったし、十数社の関係者を集めて合意形成をするような折衝もした。
苛つくことは多かったが、それなりの充実感があったことも確かだ。

今は、会社で働いてやりたいことが無くなってしまった。
毎日事務所に出向いて、話したくもない人間と話し、組織が決定したことを実現するために自分の時間を使って、ということに磨り減ってしまった。
金にならなくてもいいから、自分のやりたいことだけやって、自分の話したい人とだけ話していたいと考えている。
そういう人生が、金の項で述べた「生きる価値のある人生」だと考えるようになった。
「会社で働くやる気」が無くなってしまった。