タイトル:僕はなぜ小屋で暮らすようになったか
著者:高村友也
出版社:同文館出版

東京大学文学部哲学科卒、慶応義塾大学大学院博士課程単位取得退学。
山梨に土地を購入し小屋を建てて生活する高村友也氏の著作。

「Bライフ」との出会い

初めて氏の存在を知ったのは、2年くらい前だ。
働かない生き方隠遁、といったキーワードで検索していたらとある掲示板の書き込みにたどり着いた。
「興味のあるやつは『Bライフ』で検索してみろ」
そう書かれていた。
検索すると、高村氏が土地を購入し、小屋を建て、自活して生活する日々を書き綴ったサイトに辿り着いた。
(今は氏のブログは健在のようだが、当時私が見た「Bライフ研究所」というサイトは無くなってしまったようだ。)
氏はそこで、自前の不格好な小屋にロケットストーブを設け、電力はソーラーパネルで発電しながら暮らしていた。
衝撃的だったのは、感情論に訴えたり精神論を主張するのではなく、淡々と合法的に自分の居場所を確保する取り組みをしていたことだった。
例えば、下水設備の無い状況での屎尿の処理については法律と地方公共団体の条例で方法が定められているが、氏は法規を紐解いた上で適切に対応し、それを記事にしていた。

孤独を望む生き方

高村氏は本書を含めて3冊の著作がある。
本書以外の2冊は、どちらかというと小屋での生活にフォーカスした内容だ。
本書は、氏の生い立ちから始まり、何故今のような生活を志向するようになったかというテーマで書かれている。
私が高村氏の考えに惹かれたのは、交友と交易を否定し、孤独であることを望んでいるように感じられたからだ。
本書の帯にも、「圧倒的な孤独と無限の自由」という言葉が書かれている。
それとは対照的に、企業に帰属した生き方へのオルタナティブであり、かつ交友と交易を否定することを志向する点に、自分との共通点を感じだのだ。

本書の内容は、同意できる点もあれば、よくわからない点もあった。
「死というのは、その人の本性を映し出す変幻自在のジョーカーカードのようなもの」
いずれ死ぬのだから楽に生きたい、いずれ死ぬのだから精一杯生きたい。
確かに、「死」を前提とすることは、自分の本音を抽出するためのプリズムの役割を果たす。
社会のシステムは、多数社にとって使い勝手が良いようにできている。
現代で言えば、組織に属し分業体制の中で働き賃金を得て、賃金で物とサービスを得るということになる。
多数派にとってやりやすいシステムにうまく馴染めないと社会不適合者ということになる。「だがこれは文字通り現行の社会に不適合なだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。
平均的な人間に生きやすく出来ているのだから、不適合者が損をするのは当たり前である。」
この辺の割り切りは難しい。
私は、不適合と侮られること、蔑まれることを恐れてしまう。 
「つまり僕は、現代のメインストリームの生き方も嫌、人間関係の密な相互扶助的な生き方も嫌、そして自給自足するだけの力もない。
となれば、徹底的に質素に生きるしか無い。」
ここで、相互扶助的な生き方をも拒絶するのが、他の論者とは異なる点だ。
私はその主張にとても惹かれるのだ。

高村氏については「結局彼は裕福な家庭の子息なので、適当にぶらぶら生きていくだけの余裕があり、それを過剰に悲観的に書き出すことをコンテンツにしているだけだ」という指摘を掲示板で見た。
確かに文章を読んでいるとそういう印象も受ける。
私も生家の援助が期待できて、かつ生家への対面を気にしないで良いのであれば、大学院に進学したかった。
高村氏はその点について思い悩んだ節は見られない。
本書にも書かれているが、家族との関係は良好なのだろう
また、本書に出てくる「僕は恋愛経験も少ない方ではなかった」という記述は、他の文章のトーンと比べて唐突感を感じた。
著者も、他人からの見られ方を多少は気にしているところがあるのではないかと思った。