昔から「遊ぶ」ことが苦手だった。
自分では遊んでいるつもりなのだが、他者からは上手く遊べていないと捉えられたようだ。
遊びの記憶で言うと、幼稚園の頃に「にこにこ島」という遊具でよく遊んだことを思い出す。
名前は当時のNHK教育テレビの「にこにこぷん」から借用しているが、別にじゃじゃ丸、ピッコロ、ぽろりがいるわけではない。
木製の台が円形に配列され、それを跳びながら回るというだけの遊具だ。
それを無心に、何周も何周も飛び回っていた。
それが私の「遊び」の原体験だ。

一人遊びは見下される

月日は流れて
「今が一番モテる時期だからもっと遊んだほうが良いぞ」
「今月の土日は遊ぶ予定結構入れちゃってるからなー」

上の方は、前の職場で世話になった先輩に言われた言葉だ。
ちなみにここで言う「今」は30歳の時。
この場合の「遊び」は明解で、要は飲み会に行って女の子と知り合ってデートしてSEXすることだ。

下の方はやはりこれまた前の職場の同年代の女が言っていた言葉だ。
これは確か20代後半にした会話での発言だが、今でも「遊び」の予定がいっぱいだったら尊敬する。
この場合の「遊び」は異性とでも同性とでもいいから、なんらかのアクティビティ(旅行、スノボ、飲み会)をすることだ。

現代的な文脈で「遊び」という場合、2人が言うようなことを指すことが多い。
両方に共通するのが、自分一人で行うことではなく他人と何かをするということだ。
本来は、他者の存在は必ずしも「遊び」の要素ではない。
実利に基づかないアクティビティはあまねく「遊び」に分類する余地がある。

私は他者とふれあう「遊び」がいまいち楽しめない。
私にとっては、本を読むことも、 カメラを持って散歩することも、秋葉原のパーツ屋を覗くことも、ジムでラジオを聞きながらトレッドミルをすることも、このブログを書くことも、最高の「遊び」である。
だが、それは「遊び」とみなされないか、ともすれば程度の低い「遊び」と評価される
それはひとえに、他者が介在しないアクティビティだからだろう。
(ブログは読者様がいてくれるのでまだ評価されやすい。)

労働の中のアゴーンもどき

フランスの思想家であるロジェ・カイヨワは、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」に影響を受けて「遊びと人間」という著書を残している。
カイヨワはその中で、遊びを4つに分類している。

アゴーン:競争
徒競走や格闘技といった、ルールを持って優劣を決定する行動は遊びと考えることができる。
仕事にもこの考え方が取り入れらている。
我々は勤め先で他者との競争に晒されるが、それは競争を「遊び」として楽しみを見いだせるとの前提があるからだ。

アレア:偶然
偶然の産物として果実を得ることを「遊び」としている。
宝くじ、賭博などはこの範疇に入る。
株式投資やFXのトレードは、自身の分析や方法論を持った上で取り組めば「アゴーン」になりうる。
だが、テラ銭の安い丁半博打として取り組むとそれは「アレア」である。

ミミクリー:模倣
幼少期に行われるごっこ遊びや、演劇がこれに分類される。
他者の物語を追体験する目的で本を読むこともこれに含まれるのだろうか?

イリンクス:眩暈
他とは少し毛色が異なるが、絶叫マシーンやブランコによる遊びについて「眩暈」として独立の類型を設けている。
飲酒はこれに近い遊びなのではないだろうか。

沢木耕太郎の初期の作品に「鼠たちの祭」という、商品市場における相場師についてのルポルタージュがある。
沢木はその中で「遊びと人間」について言及している。
『かつて、ロジェ・カイヨワは遊びを4つにパターン化した。
そのうちのひとつ「アゴーン」への人々の強い愛着を説明して、アゴーンのように一定のルールのもとにハンディもなく闘えるものは実生活においては何もないからだといっている。
確かに、現実はアン・フェアーなハンデがいく通りにも課せられている。』

上述の通り、会社の評価制度にはアゴーンの要素が取り入れられている。
だが、実生活においてはハンディもなく競い合いことができる「アゴーン」は存在しない。
「仕事の配分が適切になされないことが多い。」
「収益貢献が同等でも情意評価で理不尽に差がつけられる。」
「年功序列の既得権を覆す評定はそうそうなされない。」
労働における「アゴーンもどき」においては、アンフェアーなハンデの上で利潤追求のために競争に晒されるのだ。
これはたまらない。