今時珍しい仏具店の前を通った時にふと考えた。
90年も100年も生きた人を、死んだ後まで供養する必要があるのだろうか。
ここまで寿命が伸びてるのに、昔と同じような考え方で死と向き合っていることに違和感を感じたのだ。

生きてるうちに十分世話しただろう

平均寿命が60歳だった時代であれば、60歳で没して13回忌の法要をしても、死者が生まれてから73年だ。
直近の統計によると、日本人の平均寿命は男が80.79歳、女が87.05歳。100歳まで生きる人も珍しくない。
仮に90歳まで生きた人を13回忌の法要までやると、実に死者が生まれてから103年もの間、誰かしらが死者にかまうことになる。
夭逝した人間や現役時代に事故や病に倒れた人間であれば、死者のあり得たはずの未来、共に過ごすはずだった時間を偲んで供養することも理解できる。
だが、一般的に大往生と言われるくらい長生きしたのであれば、もう生きている間に十分話したり世話を焼いたりしただろう。
逆にそれだけ生きていてやり残したことがあるのならば、それは永遠に生きても訪れない機会だったのだろう。
昔と同じモノサシで、死んだ後にまで拝んだり花を添えたりすることが必要なのだろうか。
 

長寿も家族もリスクとしての側面が大きい

平均的な職業人は、100歳まで生きた場合に必要な生活費を、現役世代に貯めきることは出来ない。
また、我儘な老人の世話や介護で疲弊している世帯は多い。
身内の高齢者が死んだ時に、悲しい気持ちよりもほっとした気持ちを感じる人も多いだろう。
「長寿は幸福」、「死は悲しい」、「家族は大切」
皆、これらの建前に縛られすぎている。
長寿は不幸だし、厄介者が死ぬと安心するし、血の繋がりがあり相互に扶養義務を負わされている家族だからこそ憎くてたまらないのだ。

弔い方は残された者が判断すればよい

東京大学卒の僧侶、小池龍之介氏に「こだわらない練習」(小学館)という著作がある。
「こだわり=執着」が息苦しさを生むと指摘し、18の項目について等身大の説法が記されている。
その中の一つに「葬儀にこだわらない」という項がある。
小池はその中で、いわゆる「終活」の一環として、自分の死後の葬儀の有無や埋葬方法について生前に指定することに疑問を提示する。
「死者に死後はなく、死体も死者のモノではない。本人は既にその時存在しないのだから。
自分の死後のことまで自分の望むようにしたいと指示するのは執着に他ならない。」
小池の論旨とはやや異なるが、埋葬も供養も遺族が遺族自身の死生観を確立した上で死者と向き合えば、それで良いのではないだろうか。
世間体や旧時代の常識に縛られる必要はない。