これまで「生まれてこなければよかった」というテーマで2つ記事を書いた。

この2つは、当ブログの中でも検索エンジンから見に来ていただく方が多い記事だ。
こんな過疎ブログでも、「生まれてこなければよかった」で検索するとGoogleの5ページ目に出てくる。
(以前は2ページ目に出てきてたんですよ。下がって結構ショック。)
生き難さを感じた人が陥りやすい感覚でありながら、あまり口(文字)に出して言う人が少ない言葉なのかもしれない。

「生まれてこなければよかった」 という言葉は、「生まれてきたことは悲劇で、しかもそれは自分の意志ではなく親の都合である」という、責任の所在を親に求めるスタンスを内包している。
最近、思うところが2つあった。

他者転嫁の効用と限界

9月下旬に一人の青年が自分の自殺をUstreamで配信した。
大手メディアでは取り上げられていなかったようだが、ネットの一部で話題になった。
青年は、自身のホームページに彼の人生に関する情報を結構な分量で書き残していた
そこでは、問題のある家庭で育ったことや、母親への呪詛が語られている。
(興味のある方は「ケンモメン 自殺」で検索してみてください。気持ちのよい話ではないので苦手な方は読まないほうが良いです。)
青年の過酷な家庭環境には胸が痛くなった。
だがその一方で、自分が人生を楽しめない理由をあまねく外部環境に転嫁していることについて気が滅入ってしまった。
私は、責任を他者に転嫁するのは人間に必要な行為だと思う。
特に、自罰的で苦しみやすい真面目な人間は、病むくらいなら適度に環境や運や他人のせいにした方が良い。
私も、自分が幼少期から不仲で面倒くさい家庭で気を使って立ち回っていたことが、働くようになってから人付き合いで気を使って疲れてしまった一因だと考えている。
アドラー心理学の原因論の否定にあるように、自分の不幸や上手く行かないことの原因を、自分ではどうしようもないことに求めても何も生まれないのかもしれない。
だが、自分の苦しみの原因を外部に転嫁することは救いになる。
そうしないと、全てが自己責任の自業自得になってしまうのだから。

しかし、全ての原因を外部に転嫁することにも難点がある。
逆説的だが責任の全てを外部に転嫁して一番辛いのは自分自身なのだ。
責任を転嫁して一息ついたら、しんどいけど次にその状況で自分がどうするかを考えないといけない。
だが、外部要因は自分では変えることが出来ない。
そのため、生き難さの原因を全て外部要因に求めてしまうと、現状に対して自分に出来ることがなくなってしまう。
不幸中の幸いで、全てが外部要因で決まるほど世界は管理が行き届いていない。
全てを外部要因に転嫁したくなるようなときは、きっとどこかに認知の歪みがあるはずだ。
私も死にたいと思うことは結構あるが、自分にはまだ出来ることがあると思っているから、まだ生きていられる。

インナーチャイルドの悲しみ

少し古い(2007年刊行)が、「インナーチャイルドの癒し」(著者:越智啓子、出版:主婦の友社)という本を読んだ。
自分の感情、本音、本来の姿を「インナーチャイルド」(内なる子)として捉えて、インナーチャイルドと対話したり癒しを与える心理療法について書かれていた。
その中で、自身のインナーチャイルドに向かって「生まれてきてくれてありがとう!」と何度も言うというセラピーがあった。
思わずハッとした。

私は、労働で磨り減っていく毎日が辛い時、頻繁に「生まれてこなければよかった」と考えていた。
似たような思いの人を探して、検索エンジンに問いかけていた
私の「生まれてこなければ良かった」の根幹にあるのは、自分の生き難さの原因を生まれ育った家庭の不和に求め、親族に転嫁することだった。
上述のように、私はこの「生まれてこなければよかった」という思考に随分と救われてきたと思う。
だが、責任を親に転嫁するニュアンスを含むものの、「生まれてこなければ」というのは自己の否定に他ならない
私のインナーアダルトが親への転嫁により一息ついている間、存在を否定されたインナーチャイルドは泣いていたのではないだろうか
他者に転嫁したつもりでいたが、自分のインナーチャイルドを損なっていたのかもしれない。

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「生まれてこなければよかった」という思考は両刃の剣だ。
親の都合で勝手に産み落とされて、そのくせに家庭には問題があった。
私のように、このように考えることで自分に寛大になれる人もいるだろう。
だが、自分の辛さを全て外部に転嫁してしまうと自分に出来ることが何もないような錯覚に陥ってしまう。
そして、無意識の中で、自分を傷つけているかもしれない。
転嫁して落ち着いても良い。
だが、決して自分を損なわないようにしたい。