『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでいて思ったことだ。
著者のマーク・ボイルは、食い物や環境負荷について結構なこだわりがある人間のようだ。
オーガニックの野菜にこだわりがあり、サプリメントの使用は論外だと言う。

対象的に、私は生活にかかる費用は安ければ安いだけ良いという主義だ。
食事であれば、安価な炭水化物で空腹を紛らわして、不足するビタミンとミネラルは安価で簡便なサプリメントで補えば良いと考えている。
食事だけでなく、衣食住のような生命の維持にかかる出費は現代人にとって呪いのようなものだと考えている。
それらにかかる費用を最小限に抑えれば、それだけ理不尽な労働から逃れられる。
人生の切り売りから解放される。
望んでもいないのにこの世に生を受け、労働により糧を得なければ生命を維持できない。
労働への憎悪が、生命と生活への憎悪につながっているのだ。
それゆえ、他人や社会全体の利益のためにお金や時間を拠出する人間を、素直に評価できない
オーガニック、ビーガン、ベジタリアン、動物愛護、途上国支援、文化財保護、反原発、フェアトレード、環境保護。
こういった主義を熱心に主張している人々は、まるで自分とは全く次元が違う悩みを抱えているかのように感じるのだ。
俺は日々の労働や鬱陶しい家族の扱いで疲弊し、死にたいと思っている。
だが、こいつらは、顔も知らない人間や畜生や環境などのために無用な出費をしたり自分の時間を使っている。
それが自分には無い余裕のように見えて、羨ましくて憎くてたまらないのだ。

環境問題と国際協力には、大学の頃まではそれなりに興味を持っていた。
団体に属して活動するまでではなかったが、本を読んだり講義を受けたり活動している人の講演を聞いたりした。
労働で摩耗する中で、大義への情熱や他人を気遣う余裕を失ってしまったのだろう。
最近何でもかんでも労働のせいにしすぎかもしれないが。
 
そういえば高村友也氏の著作でも、以下のような記述がある。
スーパーで買えて一番安くカロリーを摂取できる食べ物はなんだろうかと考えた結果、小麦粉を塩と砂糖で練って、フライパンで焼いてチャパティにするか、薪ストーブで膨らませてナンのようなものを作るかして、コーヒー片手にそれをつまんでいたこともある。
氏がこういう行動を取った理由は私とは異なるのだが、妙に頭に残った。