先日、鶴見済氏の『脱資本主義宣言』を読んだ。
大学の寮の共有スペースに置かれていた「完全自殺マニュアル」と「人格改造マニュアル」を読んだのが、氏の著作との出会いだった。
本書では、経済発展中心の考え方の不合理な点について、感情に訴えるのではなく、理屈と歴史的な経緯を説いて問題提起している。
私は、環境保護や貧困問題のように、大義のために自分が不自由になろうという考え方は少し敬遠してしまう質だが、本書はトーンが押し付けがましくないので純粋に興味深く読めた。

本書のメインテーマとは異なるのだが、ものごとに対する共感や憐憫や義憤の度合いは、詰まるところどこまでリアリティを持って自分の問題として考えられるかで決まるのだろうと考えた。
(本の紹介記事は改めて別に書きたいと思います。)

過剰な労働を生む装置への嫌悪

私は労働が嫌いな人間だ。
それゆえ、人間を過剰に労働させる仕組みも大嫌いだ。
スーパーマーケットやファミレスが24時間営業する必要はないし、商店が年中無休で営業する必要も無いと考えている。
また、一時話題になったワンオペのように、人件費を削って店員がいつも忙しそうにしている店も見ていて心が痛む。
労働は嫌だという意見で意気投合していた友人が、あっけらかんと「24時間営業のスーパーは便利だ」「~~は元旦に開いていなくて不便だった」と言っていたのを聞いて、「お前は労働が嫌いなくせに過剰な労働を生む装置については気にならないのか」とその無神経に憤りを覚えたこともある。

スウェットショップの労働者と労働が嫌いな私

『脱資本主義宣言』では、ジーンズやスポーツ用品のスウェットショップ(搾取工場。主に途上国において劣悪な労働環境で運営されている工場。)について言及されている。
通常であれば、私はこのような仕組みも自分にとって有用であると認識して目をつむる。
先進国側にいる自分は、途上国の低賃金労働によってもたらされる安価な衣料品や加工食品、軽工業品の恩恵を受けている。
そのおかげで、自分が大嫌いな労働で人生を切り売りして得たお金を節約することが出来ると考えていた。
だが、スウェットショップを、先進国による途上国からの搾取という枠組みではなく、労働環境の問題と考えるとイメージがリアルになった。
『若年労働者が、低賃金で長時間労働に晒されている。
職場環境が劣悪で監督者によるハラスメントも日常的に行われる。』
手前勝手な話だが、そのようなリアルなイメージが自分の中に出来て初めて、これは自分と同じ人間に関連する問題なのだと認識できた。
スウェットショップの労働者も私も、同じ一人の働く人間なのだ。

どこまでリアルにイメージできるか

ものごとに対する共感や憐憫や義憤の度合いは、どこまでリアルに自分の問題として考えられるかで決まる。
いくつか考えてみた。

待機児童の削減については、私は少なくとも自分の問題としてはイメージできない。
あくまで出生率や女性の労働力の活用というマクロのレベルでしか共感できないのだ。
家族についてネガティブなイメージがあり、結婚する気も子を持つつもりもないからかもしれない。

・動物を人間と同視するような過剰な動物愛護にも自分の問題とは考えられなかった。
動画共有サイトで屠殺の動画をずっと見たこともあるが、殺される動物の感情はリアルにイメージできなかった。
私はヒトなので、それ以外の動物の便益より人間の便益を優先させて欲しいと考えている。

環境問題については、マクロの視点だけで見ると、それよりも自分の低コストの生活が大切だと考えてしまう。
だが、背後にあるストーリーの登場人物まで考えると、自分の問題と捉えられるものが多い。
例えば『脱資本主義宣言』では綿花栽培によるアラル海の縮小について言及される。
綿花栽培が旧ソ連時代の農業政策で人為的にウズベキスタンに割り振られたということや、自国における利用ではなく専ら先進国への輸出のために栽培されていることを考慮すると、大きな力に翻弄される人間の問題になる。
自身も時代や社会に翻弄される一人の人間として、これは私の問題だと考えられるようになる。

自分の問題としてイメージできないことには無頓着なので、イメージできる人からすると無神経に見える。
前述の24時間年中無休に対する友人と私の反応の違いもそうだろう。
あまりいろいろなことに共感や憐憫や義憤を感じていても生き難くなってしまうのだけれど。