タイトル:危機の宰相
著者:沢木耕太郎
出版社:文春文庫(または『沢木耕太郎ノンフィクションⅦ 1960』(文藝春秋刊)にも収録)

1960年に成立した池田勇人内閣の中心政策であった「所得倍増」についてのノンフィクション。
総理大臣・池田勇人、エコノミスト・下村治、宏池会事務局長・田村敏雄
大蔵官僚としては「敗者」であった3人の男達を中心に、高度経済成長に至る時代を描く。
特に、下村の経済理論を咀嚼し、池田に現実的なビジョンとして提示した田村敏雄への評価は、後の日本経済史の研究にも影響を与えているという。
解説で沢木自信が、本作は政治に関するテーマを扱っているが、スポーツを書くように書いたと述べている。
実際に、中心となる3人の人生の描写はドラマティックで、ノンフィクションではなくは小説作品を読んでいるような感覚になった。

本書は、池田が1964年に咽頭がんで退任してから一時代を経た、1977年に書かれた。
当時参照可能であった池田政権に関する文書や、関係者への取材に基いて書かれている。
もっとも、3人の中心人物のうち、執筆時に存命だったのは下村治のみであった。
本書は250ページに及ぶ長編でありながら、長らく書籍化されなていなかった。
2004年の全集刊行時に手を入れ、池田勇人の首相就任と同年に発生した浅沼稲次郎刺殺事件をテーマにした「テロルの決算」とともに「1960」というタイトルで1冊にまとめられた。現在では文庫でも出版されている。
私は全集の方で読んだのだが、著者自身による解説ともいうべき「未完の六月」という小編が収録されているため、どっぷりハマりたい方にはこちらを勧める。
ただ、文庫版では下村治の息子である下村恭民氏が解説を書いている。
こちらも機会があれば読んでみたい。

なぜ今、池田勇人か

作中の池田勇人の生い立ちを描いた章で、池田が宇都宮税務署長時代に「落葉性天疱瘡」という奇病に罹患し、壮絶な苦しみのなかで、献身的に看病した妻をも失ったということが書かれている。
不意に、これはどこかで読んだことあるなと思った。
確か、モーニングで連載している『疾風の勇人』という漫画だったはずだ。
現在も連載中で単行本が2巻まで出ている(作者は『ムダヅモ無き改革』の大和田秀樹氏)。 
この低成長の時代に、『所得倍増』を唱えた宰相を主人公にしたのは意図があってのことだろう
もちろん、当時が60年台安保や高インフレに悩まされた難しい時代であったことを考えると、高成長の時代として単純に懐古するのはナンセンスだ。
当時は物がなく、人々は現在よりも貧しかったし、労働時間も長かった。 
私なりに考えた視点は以下の2点だ。

「自信の欠如」の時代と「信頼」

現在と1960年は、日本人が自信を失っている時代であるという共通点があるのではないだろうか。
1960年台は、戦後の復興が一服し、これから勃興期に入るというフェーズであった。
成長機会は前途に広がっているものの、人々は戦争で多くのものを失った経験があり、自信がない
一方現在に目を向けると、日本は世界一の高齢社会であり、未来に希望が持てない中で、国民が社会福祉の奪い合いをしている。
多くの人が、高齢化による社会福祉負担の増大と少子化による労働力の減少を背景に、この国はこれからどんどん貧しくなっていくと考えている。

では、自信が欠如した時代をどのように乗り越えるべきなのだろうか。
1960年当時は、物が足りない状況でインフレを低位に抑えるため、需要を抑制すべきと考える意見が支配的であった。
設備投資の増大による供給能力の拡大に着目した下村の立場は、当時の経済論壇では邪教であったという。
責任を追わない立場の研究者達は、「永遠の正論」の側に立って、高成長論に反抗する。
そのような状況で、池田達が『所得倍増』を打ち出したのはなぜか。
本書ではその理由を、日本人を「信頼」していたからだと述べられている。
失われたものは戻らない。
だからこそ、今自分たちが持っているものやポテンシャルに自信を持つ必要があるのかもしれない。

政治家の「実務能力」

池田は大蔵省では税務関係のキャリアが長かった。
政治家になった後も数字には愛着があり、統計を良く見ていたとのことだ。
例えば、 池田が通産大臣時代に官僚の一人に「国民総所得(GNI)というものが良くわからないので解説して欲しい」と訪ねた。
官僚がGNIの三面等価(生産・支出・分配)について説明すると、手元にあった国民所得統計の数値をそろばんではじき「本当だ」と面白がったというエピソードが残っている。
このエピソードは、初歩的なことでも疎かにしないで確認し、さらに、数字を自分の手を動かして検算できるだけの知識と実務能力を持っていることを示している。
何を知っているわけでもないのだが、今の国務大臣でこのような対応が出来る人はどの程度いるのだろう。
親のコネで優良企業に入った2世、3世の議員はもちろん、実務家出身者でもあまりそういうイメージが持てる人がいない。


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池田勇人の漫画