ここ数年間、働いたり人と話すのが辛くて仕方が無かった。
だが、振り返ってみるとこれまでの自分の人生の舵取りに決定的に誤ったところがあったわけではない。
そう、自分としては最良ではなくとも悪くない選択を重ねてきた
それなのに辛くて仕方ないのだ。

「決定的な誤りが無い」と言ったが、これは苦悩や挫折を知らないという意味ではない
自分に与えられたリソースと可能性の中で、自分はどうすれば良いのか、悩みに悩んで生きてきた。
「地元にいたときも離れてからも、自分が壊れない範囲で家庭内のいざこざに気を使って生きてきた。」
「金は無いが地元から離れた大学に行くために現実的な選択肢を選んだ。」
「大学院に行きたかったがこれ以上親の世話にはなりたくないので働くことにした。」
家族と資金について完全な自由が与えられていたら、これらの選択はしていなかったかもしれない。
だが、現実に私の置かれていた状況では、これ以外の選択肢を取った場合、自分の周りで何かしらの不都合やいさかいが起きていたと考えている。
不都合やいさかいと戦わなかったという点では、「自分にとって最良の選択」ではなく、「自分にとって安全な選択」に逃げていたとも言える。
だが、不都合やいさかいと戦って自分が壊れてしまうことが怖かった。
それほどに、私は肉親も含めた他者が怖かったのだ。

反出生主義に私が共感してしまうのも、そのような背景ゆえだと思う。
幸福が感じられない理由を探す。
だが、人生のどこかに決定的な後悔があるわけではない。
自分なりに納得できる選択を重ねてきて、それでも幸福が感じられない。
そうなれば、原因を出生に求めるしか無い。

もしくは、私の人生の舵取りは自分が評価するほど立派ではなく、どこかに決定的な誤りがあるのだろうか。