先日、土屋太鳳の読み方がわからなかったのでWebで検索した。
ついでにWikipediaの彼女の記事を一通り読んだのだが、尊敬する人「家族」という情報があった。
芸能人もなかなか大変だ。
大人になってまで「尊敬する人」などという無遠慮な質問に答えなくてはならないのだから。

日本で生きていると、20代の前半くらいまでは尊敬する人を聞かれることが多少あると思う。
小学生の作文の題材としてもポピュラーだし、大学のサークルや会社の新入社員紹介のプロフィールに書かされることもあるだろう。
それ以降は、あまり聞かれない気がする。
30代の人間が輝かしい業績を挙げたときは今後の展望と絡めてインタビューで聞かれるかもしれない。


「尊敬する人」はいません

昔から「尊敬する人」を聞かれると困った
安全な回答は「家族」なのだと思うが、私は自分の家族が苦手だったので嘘でもそんなことは言いたくなかった
仕方なく、伝記で読んだ過去の偉人の名前を挙げることが多かった。

ざっくりと分類すると、尊敬の対象になりやすい人は、「能力が優れている」「人格が優れている」「優劣はともかく自分が好ましいと思う特徴を持っている」のいずれかではないかと思う。
私もこれまで、有能な人物と仕事や勉強をしたことがあるし、人格者に助けられたこともあるし、面白い考え方や生き方をしている人間に刺激を受けたこともある。
だが、彼・彼女らを「尊敬」しているかというと、どこか違う気がするのだ。

「尊敬」と検索窓に打ち込むと、Google先生が以下の定義を教えてくれる。
そんけい
【尊敬】
《名・ス他》他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついて行きたいような気持になること。うやまうこと。
おそらく私が他人を尊敬していると言い難いのは、後段の「頭を下げたくなる」と「ついて行きたいような気持ちになる」にある。
人間不信ゆえの認知の歪みなのだが、私は、相手がどんなに好人物であっても、自分に危害を加えるのではないかと心のどこか怯えているのだ。
それゆえ、人に頭を下げるのも指示に従うのも苦手だ。
頭を下げればそれにつけ込み自分に害を成すと考えるし、他人に心酔すれば体よく道具として使役される羽目になると考えている。
論理を伴わない歪んだ感覚なのだが、分かっていてもなかな克服できない。

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「尊敬」の話ではないが、人間嫌いとして知られる江戸川乱歩には以下のような逸話が残っている。
雑誌『新青年』のアンケート「あなたが生まれ替わったら」への乱歩の答え
「たとえ、どんなすばらしいものにでも二度とこの世に生まれ替わって来るのはごめんです。」

今度聞かれる機会があれば、次のように答えるのはどうだろう。
「たとえ、どんなに素晴らしい人でも、他人を尊敬したことはありません。」