誰かに向かって「生きろ」と言うのは「死ね」と言うのと同じくらい暴力的だと思う。
辛いことがあっても最悪死ねばよいというのは私にとって救いだからだ。

「親が悲しむから生きろ」とか
「友人が悲しむから生きろ」とか
「そんなことに負けてどうする、生きろ」とか
そのような一般的な助言をされるよりは「今が辛くても幸せでも死んだら全て終わりになる」と考える方が気楽で、逆説的だが生きることに肯定的になれる

「生きろ」と言われるのが苦痛に感じる理由は2つある。
1つは自分の瑕疵を責められているように感じるからだ。
「生きろ」と言われると、
「生きることに肯定的でなければならない」
「人生は幸福でなければならない」
というような価値観を押し付けられているような気分になる。
そのように考えられない自分は欠陥を負っており、それを克服しなければならないような焦燥に駆られる。

2つ目は、生きることに肯定的になれない自分を惨めに感じるからだ。
世間の多くの人間は死ぬよりも生きる方が良いと考える。
すなわち彼らは、生きることには価値があり、少なからず幸福を感じているということだ。
それと比べる自分が惨めに思えるのだ。

とはいえ、死は不可逆的だから実際に死んでしまうと取り返しがつかない。
(時間が巻き戻らない以上、本当は生も不可逆的なのかもしれないけれど。)
坂口恭平『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動だ」と言っている。
希死念慮に対して感情的に怒ったり悲しんだりすると、本当に死んでしまう。
部品が摩耗して休止か交換を訴えているのだと考えて、機械が故障したときのように、電源を止めて故障を観察すればよい。
そのように述べている。
なぜ生きなければいけないのかという理由は語らないが、この考え方は押し付けがましくなくて好きだ。