自分は映画を見たりを読んだりするのにつけてもケチだと思うことがある。
ここでいうケチとは、「作品の内容を無駄にせず全てを咀嚼したいと考えている」くらいの意味だ。


昔から、映画を見るのが苦手だった。
2時間ずっとスクリーンに集中していなくてはならないことに疲れるのだ。
トイレに離席したりふと画面から注意をそらした時にとても重要なシーンが流れ、自分がそれを見逃すことを恐れている。
その1シーンを見逃したばかりに、その映画の全てが台無しになってしまうことを恐れている。
それゆえ、どれほど楽しみにして見に行った映画であっても、途中からは開始からどれくらい時間が経ったかを確認し、あとどれくらいで終幕かを気にしている。
これは映画館だけに限らない。
レンタルビデオを借りるときも、果たして自分が最後まで集中力を途切れさせずに見られるか、またそれだけの価値があるかを気にして、なかなか借りられない。
Amazonのプライムビデオでも、気になる映画があるとプレイリストに加えるのだが、見るだけの気力が沸かず、ついぞ見ないままだ。

本を読むのもそうだ。
子供の頃から本を読むのは好きだったが、苦手だった。
一度出てきた内容を忘れてしまい、読み進めていくうちに話の展開や論理構造についていけなくなることを恐れている。
重要そうな箇所を振り返り易いと安心するので、鉛筆で印を付けながら読む。
もちろん、試験勉強の時は要点以外は流して、その分演習の時間を確保するようにしていた(さもなければ悲惨な結果になる)。
また、仕事で読む文章については、多くの場合は要点はどこかを探しながら走り読みをして対処している(さもなければ早くお家に帰れない)。
ただ、自分が趣味で買った本は、小説でも実用書でも吝嗇に読んでしまう

率直に言って、映画や本に対するこのような姿勢は、集中の代価としてもたらされる疲労により作品の良さが損なわれていると思う。
1作品1作品に労力がかかるので、見る/読むことができる作品の数も制限される。
そもそも、全てを理解しないと映画や本の良さが全てスポイルされるとい考えは、認知の歪みだ(類型としては「全か一かの思考」「完璧主義」)。

私が「本や映画の全てを理解したい」という強迫に駆られるのは、『自分の苦悩の答えを求めて作品に接している』ためだと考えている。
人間不信、労働苦、家族の呪縛、生きる意味に対する答えを本や映画の中に探している。
それらの苦悩は自分にとって一大事なので、集中して答えを探す必要があるのだ。
フーコーの入門書やアダルトチルドレンの解説書のようなものだけでなく、太宰やモームの小説の中にも答えを探している。
ファイト・クラブやエヴァンゲリオンの中にも探している。
苦悩が減れば接し方も変わるのかもしれないが、現代人が生きる限り、苦悩は決して減らないだろう。
「答え」を求めてする読書は楽しめない。
でも、どこにも答えが書いてないのなら、私は果たして本を読むだろうか。