• 働く
  • 休む
  • 辞める
  • 死ぬ

朝起きた時に今日の行動を考える。
私が普段思い浮かべている選択肢は上に挙げた4つだ。
だいたいはこの通りのオーダーで、上の選択肢がNGの時は下の選択肢を検討することになる。
働けないなら休む、休んでも辛いなら辞める。
さらにどうしようもなくなっても死ぬという選択肢がある。

通常は、死ぬことに比べればそれ以外の「働く」「休む」「辞める」の方が容易だ。
だが、「死ぬ」という選択肢が一番上に来てしまうこともある。
(その都度NGを出して来たから今この文章を書けている。) 
坂口恭平は『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動なので、その時は何もしないで休む」という旨のことを言っている。
関連記事:誰かに「生きろ」っていうのは「死ね」っていうのと同じくらい暴力的だと感じる
これはとても素敵な考え方だ。
だけど、「死ぬ」ことは自分ひとりでも出来るため、状況によっては純然たる事実として他の選択肢よりも容易なのだと思う。

「働く」ことは辛い。
私はこれまで、結構自分の望むような仕事をして来たのだけれど、どれも楽しみを見出だせなかった。
正確には楽しい部分もあるのだが、上司や同僚や他部署の人や社外の関係者と一緒に働くしんどさが、それをスポイルしてしまう
通勤して事務所に行き、多くの人がいるところで働くというだけで疲れてしまう。
他人が関わると興味があったことでも辛くなってしまうことがある。 

「休む」ためには会社に一報を入れないといけない。
実はこれは社会常識という無根拠な規律づけだ。
連絡を入れないことによる不利益と比較衡量してなお連絡することが辛いなら、無断で休めばいい。
ただ、僕たちは無断で欠席したり欠勤するのはいけないことだと子供の頃から刷り込まれてきた
生政治 の担い手である学校という装置は、工場労働者に求められた規律を現在でも人々に埋め込み続けている。

「辞める」ための手続きもそれなりに面倒くさい。
私はフルタイムの仕事を2回辞めたことがあるが、いずれも以下のような流れだった。
最初に直属の上司に辞意を伝える。
所属長と役員まで伝わったら退職日を決めて退職届を提出する。
この過程で、翻意を促されることもあるし、退職日について両者の意見をすり合わせたりする。
ちなみに、病気で長期間療養する時も「辞める」時の手続きに近かった。
すなわち、レポーティングラインの人々に伝えて、日程を調整して、紙を提出する、という流れだ。
また、辞める時は家族への説明もかなりの労力を要する。
無職になることへの批判は容易に想像できるし、転職の場合であっても風当たりが強い場合が多いのではないだろうか。

僕たちは、働くことも、休むことも、辞めることも自分ひとりでは出来ない。
それに対して、死ぬことは自分ひとりで出来る。
(正確に言うと、死んだ後は遺族が役所や金融機関やインフラに対して手続きをしないといけないが、当人はそのことを考える必要はない。)
辛いときほど、一人で実行できる選択肢を容易に感じる。
だから、追い詰められれば追い詰められるほど「死ぬ」という選択肢の順番が上に来てしまう。
(あるいは坂口さんはここまで思い詰めてしまう状況を「脳の誤作動」と言っているのかもしれない)

多くの人は毎日の選択肢の中に『死ぬ』という選択肢は無いようだ。
分かってくれそうな人でも「朝起きてしようと思うことに『死ぬこと』がある」と言うと驚かれる。
他人と一緒に「働く」ことがそこまで嫌いではない人が多い。
また会社を辞めるにしても自分ほど周りへの説明を気にしてナーバスになる人は少ない。

では、一度頭のなかに『死ぬ』という選択肢が生まれると、それが頭の中から無くなる日は来るのだろうか。
永田カビさんがレズ風俗レポの 後日談で「ずっと頭の中にあった『死ぬ』という選択肢が久しぶりになくなった」という旨のことを書いていたので、きっかけがあれば解消されるのかもしれない。
ただ、新作を読むと今でも結構しんどそうなので、一度『死ぬ』という選択肢が出来てしまうと、やっぱりそう簡単には無くならないのかもしれないとも思う。

アルコール依存症の不可逆性についてよく言われる例えがある。
「アルコール依存症は進行性の不治の病です。たくあんが大根に戻らないのと一緒です。」
『死ぬ』という選択肢がある状態もこれに近いのではないか、というのが私の今の持論だ。