帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

カテゴリ: マイナス思考

花が咲いて初めて名前に気付くこともある。
何年前の春のことだろうか、通り慣れた道でいつも見ていた樹が、花が咲いて初めて桜の樹だったことが分かり、驚いたことがある。
人生で出会う人もそうなのかもしれない。
何かのきっかけでスポットライトが当たらないと、通り過ぎるだけで名前すら知らないかすぐに忘れてしまう。
もちろん万人に覚えてもらう必要はないし、評判獲得ゲームにのめりこみすぎると他人の人生を生きることになりかねない。

桜の花は贅沢だといつも思う。
満開の日は二日三日、開花してから2週間はもたずに散り行く。
それ以外の50週は花のない幹がそびえ立つばかり。

歌の歌詞だと、春は暖かくも切ない季節として謳うものも多い。
『新しい季節は何故かせつない日々で』
『春はなんか優しくて残酷』
青春の終わりとともに、この感覚は久しく味わっていない。
閉じられた学び舎の中の出来事だったゆえに、一つ一つの別れが人生の一大事だったか。
それとも、めまぐるしい日々の中で、別れを惜しむ気持ちすら鈍磨したか。

大学時代の友人と話してみると、銀行預金以外の資産運用をやってる人は思いのほか少ない。
NISA口座すら作っていない。
ちゃんとした大学を出ていて、自分の頭で考えられると一目置いている友人達だ(そうじゃないと今でも連絡を取ったりしない)。

一番良くあるのが、独身時代は若くて給料も高くなかったので全て銀行預金、そのうち20代後半で結婚してしまい、家を買って子供が出来て、住宅ローンと生活資金に追われて資産運用どころではなくなる。
賞与をリスク資産で運用するよりも住宅ローンの繰り上げ返済に回すことを選ぶ。

彼の選択はたぶん正しくて、いくら低金利でも借入がある状態でリスク資産で運用するよりも、確実に将来のキャッシュフローが改善する繰り上げ返済にあてた方がリスク対比のリターン(ファイナンスで言うところのシャープレシオ)が良いという判断なのだろう。
もっと言ってしまうと、2010年から2014年くらいに家を買った友人達はここ数年の不動産価格の上昇を享受しているはずなので、ちまちま投資信託で運用していた私よりも含み益が多いだろう。
値上がりしているし、何よりレバレッジをかけた数千万円単位の取引に勝ったのだ。

住宅をうまいタイミングで購入した知人には負けたと思うものの、それでも投資を覚えて良かったと思っている。
給料をもらう以外で金を得る方法を知っているということで落ち着けるからだ。
投資の知識と実践は、フリーランスの イラストレーターやプログラマの描画技能やプログラミング技能と同じ、技能としての側面があると考えている。
フリーランスの方々がスキルを現金化するには作業のための労力が必要だし、取引や作業が失敗することもあるが、投資においてもこの点は同じだ。
完全に自分がハンドルする事業という点も同じだ。

自分の頭の整理のために、資産運用の知識と技能についてこの先すこしづつ文章にしてみたい。
BIGが当たったらプロップハウス(自己資金の運用会社)を作りたいとずっと思っている。
おそらく当たる前に寿命で死んでしまうかBIGを買う資金が無くなると思うが。


 

2年前に、身の回りのモノを整理したいと思った。
当時も今も賃貸で部屋を借りているため、使ってないものを保有するためのスペースにもお金を払っていることに矛盾を感じたのが発端だ。
(鬱状態だった時はお金を使えなかったのだが、こういう考え方はその延長だと思う。)
 
とりあえず近藤麻理恵さんの「人生がときめく片づけの魔法」を読んだ。
去年話題になっていたが、この本は米国でも大変売れているらしい。
アメリカ人は家が広いからスペースの限りものをため込んでしまうのかな。
気持ちは分からないでもない。
私の生家もその節がある。

服と本はかなり捨てた。
働くようになってから転勤も転職もしているので引っ越しのたびに整理してきたつもりだったのだが、捨てても支障のないものが多かった。
この点、ときめくかどうかという基準は大変役に立った。
体系が合わなくなっていた服(いつか痩せると思ってた)、勝った後何回か着て失敗だと思った服(痛んではいないのでシーズンに2,3回申し訳程度に着ていた)、痛んでいるが部屋着に出来る服
、本棚に置いておくと賢そうに見える本(本を残す基準がそれだった)

ブレイクスルーだと思ったのが以下の品だ。
①年賀状・手紙⇒住所録をExcelで作って全部捨てた。
②人からのもらいもので使ってないもの⇒比較的どうでもいい人からもらったものばかり残っていた。土産物とか。
③服についてくる予備のボタンと接ぎ当て用の布⇒ボタンが取れただけでは捨てたくないコートのボタンだけ残して後は捨てた。繕ってまで着ないだろう。
④書類⇒クレジットカードの請求書、給与明細等の勤務関係の書類、公共料金の検針票などなど。几帳面にファイリングして取っておいた。最初の勤務先の金融機関で覚えた技だ。税務等に関係しそうな書類だけスキャンしてデータで保存して後は捨てた。

私は持ち物を減らしてとても快適になったのだが、最近見るネットの記事だと、行きすぎたミニマリストを痛い人として取り上げるものも多い。
共通しているのは、家族のものを勝手に捨ててしまうことはアカンということ。
これは当たり前だ。
価値観の押し売りで他人の所有権を侵害している。
家族でも別の個体だ。

もうひとつは、効率性や満足を捨象して、捨てることが目的になってしまう人は痛いということ。
例えば、ピーラーはあれば大変便利だが、良く切れる包丁と包丁を使う技能があれば無くても皮は剥ける。
ただ、ピーラーを使うより短時間で包丁できれいに皮を剥ける人はそんなに多くないだろう。
また、昨今のスマートフォンのカメラがどれほど高性能になったとしても、単品のカメラを完全に代替できない。
絞りやシャッタースピードの設定しかり、光学ズームレンズの使用しかり、写真を撮る行為に自分の恣意性を介在させようとするには、スマートフォンのカメラアプリと単焦点のレンズだけでは限界があると思う。

人生という有限のリソースの利用にあたって、作業に係る時間を短縮したり、密度の高い行動を可能にしてくれる道具は非常に有用だ。
面白くない結論になってしまうが、捨てれない病も捨てたい病も行きすぎると良くない。



2ちゃんねるのサイレントテロスレだったと思うのだが、以下のような趣旨の書き込みがあった。
「趣味に貴賎はない。ゴロ寝だろうがネットサーフィンだろうがオナニーだろうが、見栄を張らないで良い。自分が快楽を達成できるものを趣味にしろ」
なかなかグッとくる。
(サイレントテロってなんぞっていう方は検索してみてください。私の理解だと、競争と消費の抑制、言うなれば明確な意思をもった不作為によって、世界を停滞させていこうという取り組みということになる。私は面白い考えだと思います。)

自分が好きでやっているはずなのに、実は周りの評判を気にしていることは多々ある。
久しく行ってないが合コンは顕著な場であり、なんとなく受けがよさそうなことを言っていた(他の皆もそうだろう)。
当時は読書と楽器演奏だと言っていたが、その時は昔や今ほど本を読んでいなかったし、ギターもかろうじてケースからは出していたが部屋のオブジェだった。
率直に当時の趣味を言うと、ニコニコ動画と同人誌ということになる。
とてもじゃないが言えやしない。
片方は一応読書ではあるが。

アル中と職場へのイラつきで地獄を見たのもあるが、今はあまり見栄を張らなくてもよくなった。
今の職場では趣味は特にないと言っているし、休日はいつか会社を辞めるために小説を書いたり作曲と絵の勉強をしていると言っている。

良く思われて得をすることは多いが、多くの人から評判を獲得しようと考えるのは窮屈だ。
私のリソースは限られているし、そうであるならば他人に良く思われるよりも自分が納得するために使いたい。
自分に置き換えてみると良く分かるが、別に他人の趣味が何だろうと興味ないという人がほとんどだろう。

人間嫌いなのに人に好かれようという矛盾を犯していたのが以前の私なのだと思う。 

 

昔カウンセラーから教えてもらった話をする。

(調べたところ、NHKスペシャルで取り上げられた内容のようだ。)

 

ヤマメとサクラマスは、生物学的には同じ魚らしい。

ググってもらえれば分かるが、ヤマメの体長が20cmくらいなのに対し、サクラマスは60cm程度まで大きくなる。

実に3倍の違いだ。

 

名前からなんとなくお分かりになるかもしれないが、川で生まれてずっと川で育ったのがヤマメで、川で生まれた後に海に下るのがサクラマスだ。

川よりも海の方が餌が豊富なため、このようなサイズ差になるとのこと。

 

この話の面白い点はたくさんある。

・海に出ていくヤマメは、川の下流の方に生まれたためあまり餌にありつけず小さく育ってしまった、いわば川における生存競争に敗れたヤマメであること

・海は川よりも生態系が豊かであるため餌となる動植物が多い。半面、敵も多いため、生存競争は依然として厳しく、多くのサクラマスがその途上で命を落とすこと

・川で大きく育ったサクラマスも産卵のため、厳しい旅路の果てに再び生まれた川に戻ること

 

私が、上記の3点を聞く前には、サクラマスになったヤマメ達は、きっとヤマメの世界に上手く馴染めなくて、もっと広い世界を見たいと思ったのだろうと考えていた。

彼らが故郷の川を離れたことに高尚な思想や高潔な魂があるわけではなく、ただ生存競争に敗れた個体たちであったという点はひどく物悲しく、そして残酷だ。

ただし、彼等が故郷の川に戻る理由が、自分たちを虐げた故郷のヤマメたちに復讐するためではなく、新しい世代を残すためだという点はすごく良い。


 

気分が落ち込んでいると、つい暗い言葉を検索してしまう。

一例を挙げると、こんな感じだ。

「死にたい」「生きたくない」「働きたくない」「無職になりたい」「働くくらいなら餓死」等々。

 

先日検索した言葉は「ダンゴムシになりたい」だった。

ブログの記事やtweetがいくつか引っかかるので、世にダンゴムシになりたい人は意外と多いらしい。

 

ダンゴムシの魅力は、

石の下で穏やかに生活し、

他の動物・昆虫を襲わず腐葉土を糧とし、

外からの刺激は丸まってやり過ごす、

という、省エネでシンプルな生活とそれを支えるためのタフさを併せ持っていることのように思う。

 

ただし、愛嬌は無い。

人間と同じサイズのダンゴムシがいたら女子供は泣くだろう。


でも良いんだ。
土の下で生きる分にはいらないんだ。
お前もそんな目で俺を見るなよ。

 

ちなみにダンゴムシに似てるけどつついても丸まらない奴もいる。

ワラジムシというそうだ。


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エレジィ
冷たい石の下
彼は落ち葉を食み
日が昇り
日が落ちて
丸まって
広がって

エレジィ
客人は
丸まった彼を
取り込み中と思い
声もかけずに去っていく
それが彼の目論見
平穏な日々

エレジィ
彼と似た
不器用そうなアイツ
同じ石の下
気が合うな
でも丸まらない
アイツはワラジムシ
ここでも一人 

水のある風景に惹かれる。


以前の職場に勤務していた時の事だ。
事務所のある殺風景なオフィス街から少し歩くと、隅田川の川辺にたどり着く。

私の生まれ育った川と湖が出会う場所と似た匂いがして、忌々しくも少し落ち着く。

 

川辺に立つと、普段とは違う匂いに気付く。

――――生臭さ

魚の死骸によるものなのか、枯れた水草が日に照らされたことによるものなのかは分からない。故郷ではこの匂いはもっと近くにあった気がする。

 

都会では、あらゆる生と死が管理されている。

都会に最も多くある生は人のものかもしれない。

人の生と死は、あまねく管理されている。

病院で生まれ、病院で死ぬことが一般的になった。

知人の弁によると、高齢の祖父が自宅で眠るように息を引き取った時は、警察がきて事情聴取のようなことをされたとのことである。

管理の枠外にあることを許さない。

 

都会では、人以外の生もこの延長にある。

車に轢かれた猫の死骸があれば、その日のうちに行政の手によって回収される。

通学路で、猫や鳥の死骸が腐敗し異臭を放つことはない。

干からびて物言わぬ塊になった後も、生前は眼であった窪みが、荒んだように世を睥睨することもない。

幼いころの私は、その姿に怯えた。
自分の生の行きつく先も、物言わぬ彼と同じであると子供ながらに悟ったからか、単に憐憫であったか。 
 
ここではただただ、行けるモノのみが存在を許される。


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