帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

生きるのがつらい

人間は不幸や老いには慣れることが出来る。でも心の傷が癒えないのはなぜ?

少し前に、行動経済学や認知科学に関する本をいくつか読んだ。
特に、ダニエル・カーネマンとダン・アリエリーが一般向けに書いた著作は、日常的なトピックと学問的な裏付けの双方が織り交ぜてあり、読み物としてとても面白かった。
(TEDに2人のプレゼンがあるので興味のある人はそちらもどうぞ。)

その中の一つであるアリエリーの『不合理だからうまくいく』の中に『順応』に関する章があった。
いわく、人間はたいていのことには慣れてしまうことが出来る。
例えば、以下のような事例が実験を交えつつ紹介されている。
・負傷により痛みを負った経験のある人間は、痛みに対する反応が鈍く、長時間痛みを我慢できる傾向にある。
・宝くじに当たった人と事故で重篤な障害を負った人について、当選or事故から1年後に人生の満足度を申告してもらうと、2人とも何も無かった人とあまり変わらない。

この、人間がいろいろなことに慣れてしまえるという現象は、私の実感にはかなりフィットする。
たぶん、カーネマンの本にあった『経験する自己』と『記憶する自己』の二面性と結構関係があるんじゃないかと思う。
(この二面性というのはざっくり言うと、人間が刻一刻と今この瞬間に感じていることと、事後的に思い出して感じることは異なるということだ。
そして僕たちの幸福と不幸の判断を行うのは後者の『記憶する自己』の方だ。)

老いにも不幸にも慣れてしまう

身内の老人が生き汚くて辟易するという話をいろんな人から聞く。
体に調子が悪いところがあれば、不安だ、死んでしまう、早く医者に行かなければと言い、家族を困らせる。
年寄りなのだから不調が出るのは仕方ないだろうに、それが我慢できない。
何をするでも無く、寝て、起きて、飯を食い、テレビを見て過ごす。
それだけの生活しかないのに、死ぬのが怖いらしい。
そういう身内がいる人と話すと、自分はあまり長生きせずに死にたいという意見で一致する。
ただ、このような意見を持っていても、いざ自分が老いた時に積極的に死ねる人間は多くないだろう。
50歳から一気に90歳になれば、死ぬ覚悟が出来る人も相応にいるかもしれない。
だが、徐々に老いるなかで、いつのまにか実行に移せないほど老いに慣れてしまう可能性は高い。

また、僕は自分は生きているだけでだいぶ辛いので、これ以上大きな荷物を持てば死んでしまうと思っている。
仕事をやめて貯蓄を取り崩しながら気ままに生きて、文無しになったら死にたいと夢見ている。
重病や障害が残るような怪我をしたら死のうと思って、なるべく人に迷惑をかけない死に方を考えていた。
(資産と契約の一覧を作り、可能な限り契約は解除したうえで、国有地で確実に死ぬというもの。)
でも、これらのことにも僕は慣れてしまうのかもしれない。

事故で凄惨な火傷を負った経験のあるアリエリーは、怪我や痛みへの順応は自分に有利に働く順応だとして、促進してその恩恵に預かるべきだと言う。
だけど、私は老いや不幸にも順応して人生が続いてしまうというのは、とても怖いことだと思う

では心の傷が癒えないのはなぜだろうか

私は幸福な家庭で育った人間が妬ましくて、そういった人間が「家族は良いものだ」とか「親を尊敬している」というようなことを無神経に言うのを聞くと、イライラして仕方がない。
関連記事:幸福な人間が憎い
こういう状態が30過ぎても続いているということは、少なくとも私はこの件には順応出来ていない
痛みや不幸には順応できても、心の傷には順応できない。
なぜだろうか?

一つ考えたのは、規範の存在他人の生活に関する情報が順応を阻むのではないかということだ。
幸福な家庭というイメージは、いろいろなところで出てくる。
学校では家族は大切にしろと教えられるし、家族愛をテーマにした本や映画が氾濫している。
そこでは、家族は助け合って、愛し合って、お互いの為を思って、感謝してやっていかなければいけないという規範が語られる。
また、街や観光地で目にする家族連れは、概ね楽しそうだ。
(機能不全家庭はそういうアクティビティをしないところが多いだろうから当然かもしれない。)
規範的で多数の人間が持っている幸福は、持っていない人間に惨めな思いにさせる。
それゆえ、慣れることが出来ず、いつまでも自分に無いものを基準に物事を考えてしまう。

とりあえずメディアとネットと都市の生活は、機能不全家庭の出身者が傷を癒やすには有害だということかもしれない。
隠遁したいなぁ。





著者はデューク大学教授で、それ以前にはMITのスローン経営大学院やメディアラボで教鞭をとっていた経験もある。本書より前に出した『予想通りに不合理』が主に消費行動を題材にしたものであったのに対し、本書は仕事や対人関係に関係する題材をメインにしている。
私の書いた本文と違って明るく軽妙な語り口で読みやすい。


カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞した認知心理学者
本書は行動経済学のトピックがだいたいカバーされており、実験の紹介も豊富だ。日本人の手による行動経済学の入門書も何冊か読んだが、本書と比べるとどれもイマイチだった。
本書を読んで「人間ってなんていい加減なんだろうと」感じて結構気分が軽くなりました。

ゾンビと労働の日々

復職して数ヶ月経ったとき、別の部署の顔見知りの人とこんな会話をした。
相手
「どう?復帰してもう慣れた?」
自分
『どうにも駄目だねぇ。
ゾンビになった気分だよ。
今の状況で自分の体がなんで動くのか分からないんだ。
活力なし、そして情熱なし。
なんで毎日電車に乗って会社に来れてるか分からないんだ。
なんで俺は今、働けているのだろう。』
相手
「今日は早く帰ったほうが良いよ。」

ゾンビの起源はブードゥー教の伝承だという。
ブードゥーの司祭(ボコ)は、呪術で死体を蘇生し使役するといわれている。
1960年台以降になると、ゾンビは『なんらかの方法で死体が動き出したもの』という設定でホラー映画などによく登場するようになる。
特にバイオハザード以降の世代だと、ウィルスの影響で死体がモンスター化したものという設定が最初に頭に浮かぶ人も多いのではないだろうか。


我ながら『ゾンビ』と言うのはなかなか良い例えだなぁ、と思ってゾンビについて調べていたら、興味深い記述を見つけた。
この術はヴードゥーの司祭の一つであるボコにより行われる。
ボコの生業は依頼を受けて人を貶める事である。
ボコは死体が腐り始める前に墓から掘り出し、幾度も死体の名前を呼び続ける。
やがて死体が墓から起き上がったところを、両手を縛り、使用人として農園に売り出す
死体の魂は壷の中に封じ込まれ、以後ゾンビは永劫に奴隷として働き続ける
   出所:Wikipedia -ゾンビ(強調は管理人)

なんてことだ!
ゾンビは労働のために作られるものだったらしい!!
そしてこれは人間の社会そのものじゃないか!!!
集団で取り囲み、揉んで、去勢して、詰めて、報酬をちらつかせて、価値観を植え付けて、本人の自由意志だと刷り込んで、労働だけさせようとするのだっ!
集団の流儀を頭と体に植え付けられたら人間としては死んだも同然だ、そこから先はゾンビとしてもの言わぬ奴隷として働くのだっ!
マイガッ!

現代のボコ(政治、集積した富、上の世代の価値観、足を引っ張るその他大勢)に死体をゾンビにされないためにはどうすればいい?
大丈夫、親切なWikipediaにはその先が書いてあった。

死人の家族は死人をゾンビにさせまいと、埋葬後36時間見張る、死体に毒薬を施す、死体を切り裂くなどの方策を採る。
死体に刃物を握らせ、死体が起き出したらボコを一刺しできるようにする場合もあるという。

私なりに人間の集団に合うように咀嚼してみよう。
・埋葬後36時間見張る
→死体をボコから遠ざけるんだ!孤立しよう。他人から離れよう。
・死体に毒薬を施す、死体を切り裂く
→利用する者にとって無価値なヤツになっちまおう!期待に答えるとか義務を果たすとか、利用するための言葉に騙されるな。
・死体に刃物を握らせ、死体が起き出したらボコを一刺しできるようにする
→反抗する力をつけよう。使役するために蘇らせたことすら利用してやろう。

自分が生者でもゾンビでもどちらでも構わない。
だが、性悪な司祭に使役されるのはどうにも耐え難い。


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ゾンビとは全然関係ないのですが最近読みました。
いつもより文章に勢いがあるとしたらこの影響です。
オン・ザ・ロード (河出文庫)
ジャック・ケルアック
河出書房新社
2010-06-04



『生きるのがつらい』療養論4 僕らは種としても個としてもズレている(進化心理学とけものフレンズ)

「ぼくたちは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされてはいるわけではない」

進化心理学という言葉は、橘玲の本で知った。
同書は、人間は自ら変わることが出来るという『自己啓発』の思想に対する橘の疑問からスタートし、生物学、心理学、社会学の理論を紹介しながら、「人は簡単には変われない、だから開かれた世界に自分の居心地のいい場所を探すのだ」という結論に至る。

進化心理学について

進化心理学は1970年代頃から研究され始めた新しい学問分野だ。
その名の通り、人間の心の動きを、それが進化の過程でどのように発生したのかというアプローチで解き明かそうとする。
ダーウィンが『種の起源』を出版したのは1859年なので、進化論のアプローチが人間心理に適用されるまでには相応に時間がかかっている。
これは、1950年以降の分子生物学の発展を待つ必要があったからだとか、学問間のセクショナリズムが原因であるとか言われている。

生物としての人間の歴史を遡ると、最初期の人類である猿人が登場したのは現在から500万年前、そこからジャワ原人やネアンデルタール人登場し、50万年前にかけてホモ・サピエンスが現れたといわれている。
一方、文明の端緒となる食料生産が始まったのは今から1万年前だ。
この1万年という期間は、生物の種が変化するにはあまりにも短い
ヒトは、定住生活よりも狩猟採集生活をしていた期間の方が圧倒的に長いのだ。
従って、ヒトの脳は狩猟採集時代に最適化された状態から変化していないという。
冒頭の橘の言葉は、「現代人は狩猟採集時代に最適化された脳を持ちながら現代を生きる矛盾を抱えた存在である」ということを述べたものだ。

生き難さの原因を考える上で進化心理学は強力な指針になると思う。

ヒトはストレスを生死とつなげて考える

例えば、承認欲求は狩猟採集時代の生活を想像することで説明できる。
狩猟採集時代のヒトのオスにとって、職業選択は命がけの選択だった。
自分の得意な分野(体が屈強なので前線で戦う、手先が器用なので罠や武器を作る、空間認知に優れるので猟場からベースまでの先導をする)を仲間に認められ、それを仕事にしないと、自分と仲間が死ぬリスクが高まる。
いくら手先が器用でもそれを仲間に認められないと、体が丈夫ではなくても前線で戦う役目を与えられてしまうかもしれない。
私たちは、職業選択や仕事上の評価について生死をかけるほど悩む素養を、ある程度生まれながらに持っているのだ。

ここから先は私の考えたことになるのだが、現代人は恐怖やストレスを実態より過大に受け止めるようにできているのではないかと思う。
狩猟採集時代は、恐怖やストレスのほとんどが死に直結するものだった。
毒蛇や肉食獣のような外敵はもちろん、上述の能力の承認や群れの規律を乱す個体の排除といった集団内のイシューも当時は生死を分ける問題だった。
一方、現代では、恐怖やストレスの原因そのものが生命を脅かすことは少ない。
都市で細長い物体に驚いてもそれが毒蛇である可能性は限りなく低いし、仕事で失敗しても命を失うことはない
(もちろん警察官や消防士は殉職する可能性があるが、狩猟採集時代は全員がそれ以上の死亡リスクを抱えており、職業選択の自由度は圧倒的に低かった)
しかし、私達の心は、集団内の問題が生死を分けていた時代を覚えている
それゆえに認知の歪みが生じ、抑うつ状態を引き起こすのではないだろうか。

多様性と標準とのズレ

もう一つ、純粋な進化心理学の話ではなく、インスパイアされて私が考えた話をさせてほしい。
私たちはヒトという種の特徴を持っているが、その一方で、生物は同一種の中でも多様性を持っている
多様性は環境の変化に適応し、種が存続するための大切なポイントだ。
しかし、 群れとしての最適戦略である多様性は、必然的に群れの中に標準から外れた個体を作り出す。
例えば、不安の感じやすさには個人差があるが、分布を取れば「危険に対する感性が欠如した人」と「過度に不安を感じやすい人」を左右のテールにおいた釣鐘型になるだろう。
そして、国家や社会の単位が大きくなった現在では、分布の中心(標準)から外れることが生き難さにつながりやすいのではないだろうか。
例えば、制度や規範が標準的な個体が快適なようにデザインされる。
また観点は異なるが、与えられる選択肢と社会の過大は世代により大きく変わるにも関わらず、前世代の標準を押し付ける圧力が働くこともストレスになる。

2017年1-3月期に「けものフレンズ」というアニメが大ヒットした。
私はネットで話題になってから見たのだが、急展開の11話から12話(最終話)までは放送が待ち遠しくなるくらいはまった。
最終話で「群れとしての我々の強さを見せるのです!」と言い、みんなが協力するシーンがある。
「フレンズによって得意なことは違うから」「けものはいてものけものはいない」といったこれまでの象徴的な言葉が思い浮かんだ。
多様性に奉仕すれば、種だけでなく私達個人にも多様性が見返りを与えてくれることがあるのかもしれない。
もちろん、人間の社会はジャパリパーク(けものフレンズの舞台)と比べるとだいぶ厳しい
我々の社会は、分布の中心から外れれば生き難さを感じるように出来ている。
そして、私達の大きな脳みそは、分布の中心に近ければ近いで、己の凡庸さを嘆くように出来ている。

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進化心理学の考え方は、ともすれば決定論的に響いてしまい、残酷で無慈悲だと受け止める人もいる。
ただ、私は、自分の辛さを自分から切り離すための手段として、この考え方は有用だと思った。
ヒトという種は葛藤を内包した存在なので、僕達の生き難さは全てが自分の責任ではない。
個人の資質が標準から外れていると生き難いのだが、それは種の存続のための多様性の範疇なのだ。
そして、おそらくそこには、原因はあるが目的は無い。
私はこの考え方でけっこう楽になった。




上の「いきづらさはどこから来るか」の方が読みやすいけれど、その分内容も絞ってあります。
ただ、生き難さにフォーカスしたトピックでこちらでしか触れられていないものもあるので、惹かれるタイトルの方から読めば良いと思います。
私は「いきづらさ~」→「だまされ上手が~」の順に読みました。
本文で書いた承認と職業選択の例は本書からの引用です。


英国の研究者の書いた入門書。
上の新書2冊の方が面白かったですが、本書には「心の病を進化から説明する」(第6章)という興味深いトピックがあります。
支配的な理論はまだ無いようなのですが、包括適応度説(血縁度の高い個体(兄弟姉妹など)を生存させるために自分を死に至らしめるメカニズムがあるとする説)は背筋がゾクッとしました。


冒頭で紹介した本。橘さんの著書でいちばん好きです。



キャラクターデザインに反して、ポスト・カタストロフィ的な伏線が随所に張り巡らされており、続きが気になるストーリーでした。
また、ヒトも含めた動物の特性の描写が巧みでした。

『生きるのがつらい』療養論3 資本論と人間嫌いの葛藤

療養中に、資本論の解説書を読んだ。

資本主義の解説書を求めて

私はこれまで、資本主義というものをあまり疑わなかった。
ニュースの意味を理解するようになる前に、ベルリンの壁もソビエト連邦も崩壊していた。
私が生まれ育った時代には、共産主義はすでに枯れた思想だったのだ。
政治思想を学ぶ中で、能力や生産に応じてではなく必要に応じて分配を受けるという共産主義の理念に共感はしたが、それは人間には実現不可能な夢の世界のように思われた。
市場を通した分配がうまくいくとは限らないが、私はそれ以上にオーソリティーによる分配のほうが信用できないと思う。 
ただ、共産主義が資本主義の代替として実現し得ないとしても、私が嫌悪する過剰な労働を生む装置(24時間営業やワンオペや残業ありきの社風)が資本主義の産物だということも事実だ。
共産主義の入門書ではなく、文字通り資本主義の解説書として資本論を学びたいと思った。

ちなみに、私が初めて資本論に言及する文章を読んだのは、『ナニワ金融道』で知られる漫画家の青木雄二のエッセイだった。
なんでも、青木は漫画家になる前に自分が作ったデザイン会社を倒産させてしまった経験があり、仕事がない時期に資本論を読んだことがきっかけでマルクスに傾倒するようになったという。
幸か不幸か私も当時の青木とちょっと似た状態だ。
資本論の勉強をするにはちょうどよいタイミングだろう。
とはいえ、原著を読むのは骨が折れそうなので、薄い解説書と厚い解説書を読むことにした。
カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) [新書] (薄い解説書)
〈資本論〉入門 [単行本] (厚い解説書)

資本論は結構思慮深かった

読んでいると、想像していた以上に思慮深く現代的な記述が多く驚いた。
例えば、労働者に対して猛々しく団結を説く共産党宣言とは異なり、資本論では「資本家」と「労働者」を個々の人格としてではなく、あくまで抽象的な役割として論じている。 
現代では、証券口座が市民にもく普及しており、公的年金や保険を通した間接的な保有も合わせれば国民の多くが「株主」としての顔を持つ。
このように、資本が一定程度民主化され「労働者」が「資本家」を兼ねるようになった現代においても、「資本家」と「労働者」を社会構造における役割として考えるのであれば一般性は失われない。

資本論と働くのが嫌いでケチな私

特に印象的だったのは、資本論における商品論と貨幣論が、私の労働嫌悪ゆえの思考や貨幣観と整合的だったことだ。
当サイトにもしょっちゅう書いているのだが、私は働くのが嫌になってからお金が使えなくなったし、お金を使わないと生命が維持できない人間は呪われた存在だと考えている。
だが、そのような考えとは裏腹に、私はお金を嫌悪するのではなく、自分に自由を与えてくれるものとして心の底から欲している。

資本論と照らして見てみよう。
1.労働力商品
生産手段を持たない労働者である私は、労働力以外に売る物がない。
持たざる者として「労働力を売る自由」があるのみだ。
2.労働力の価値
そして、労働力の値段は労働の再生産にかかる費用から決まる
明日からまた働けるだけの状態を維持するための費用が労働力の対価として支払われるのだ。
それゆえ、妻子がいない私のような人間でも、衣食住を満たしたうえで手元に残る金額は多くない。
賃労働に身をおく限りは、働けなくなるまでそれから解放されないのだ。
また、私は常日頃から、労働力を売ることで労働者に発生する出費はばかにならないと考えていた。
例を挙げると、以下のような具合だ。
・自分で食事を作る時間を奪われるために外食に高い費用を払わねばならない。
・仕事のストレスの発散のために娯楽や遊行にお金を使う誘惑にかられる。
・休日が他の労働者と集中するので、レジャーなどで混雑する時期に高額な費用を払わねばならない。
・古本屋を回ったりオークションを調べる時間が無いため、中古品を安く手に入れる機会が限られる。
高ストレスで拘束時間が長い仕事ほど給料が高いのは、労働力の再生産コストが高いからだという理解も成り立つ。
賃金が労働力の再生産のためのコスト分だけ支払われるのであれば、衣食住や娯楽を削って自己を再生産する費用を下げることでしか僕たちは自分の手元に金を残せないことになる。
そのように考えると、生命の維持はやはり呪いだ。 
3.貨幣のフェティシズム
貨幣から商品への交換は「一般」から「特別」への交換である。
そして、他の多数の商品と交換可能な貨幣はいつしか特殊な価値を持つようになる。
特別な財だとみなされるようになった貨幣は、単なる流通の便宜のための道具ではなく、人間の行動様態に影響を及ぼすようになる(物象の人格化)。
貨幣を際限なく貯蔵する欲求を抱かせるだけでなく、貨幣を通じて実現される自由、平等、所有が人間の普遍的な権利であるというイデオロギーを形成させる。
貨幣は私の中では、お金があればコミュニケーションを削減できる、お金があれば働かなくても良い、お金を稼いでいるうちは家族にも文句は言われない、という思考として人格化した。
他者からの自由のために貨幣を求めてやまない私は、賃労働を嫌いながらも貨幣のフェティシズムに支配されている。

(その他にも「分業は労働者を疎外する」とか「生産力の向上は過剰な労働力を生むから労働者に不利になる」といったことは覚えておくと健全な他者転嫁をする上で有用だと思う。)

資本論と人間嫌いな私

このように、資本論は結構私の悩みにしっくり来る思想だったのだが、引っかかる点も相応にあった。
一番疑問だったのは、マルクスは資本主義以前の家族や共同体のような人間関係を美化しすぎているのではないかということだ。
例えば家族について言えば、共産党宣言に以下の文言が出てくる。
”ブルジョア階級は、家族関係からその感動的な感傷のヴェールを取り去って、それを純粋な金銭関係に変えてしまった。”
とてもじゃないが、私は家族がそんなにロマンティックなものだとは思えない。
また、濃密な地縁関係の中で生きるよりも隣人を気にせず暮らせる現代の都市生活の方が煩わしくないし、徒弟制度よりも本とネットで勉強する方が気が楽だと思う。
私は地縁・血縁の共同体の一員として生きたり、革命のために他の労働者と団結するよりも、貨幣で結ばれた関係の方が気楽なのだ。

階級闘争よりも身近な感情

私は労働と貨幣から生じる生き難さを持っている一方で、貨幣から離れて濃密な人間関係の中で生きていくこともしたくない。
袋小路のような資本の迷宮の中で、なんとなく救いがあるように感じたのは、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉だった。
シュンペーターは経済学者としてのマルクスの功績を高く評価しており、著書の『資本主義、社会主義、民主主義』の最初の章を社会主義、すなわちマルクスの経済理論の考察に当てている。
その中で彼は、
「マルクスは労働者の本音を階級意識に基づく社会発展という啓示にすり替えた。実際には、多くの労働者はプチブルジョアになりたいと考えている。」
という、身も蓋も無いがその通りのことを言っている。

幸福は比較の中で感じられることが多い。
他者との比較によってもたらされることもあるし、過去との比較(すなわち変化)の中で感じられることもある。
労働者がプチブルジョワになると他者との比較でも過去の自分との比較でも幸福を感じられる。
疲れることが多いけれど「能力を発揮して対価を得て、過去の自分や他者よりも豊かになる」ことには、やはり抗いがたい魅力があるのだ。

資産家の家に生まれて労働をしなくてもいい人間がいることは不公平だと思うし、そういう人はとてもうらやましい。
働く時間と場所に自分の自由が無いことや、社会や会社のつまらないルールに従わなければならないことは辟易する。
そのような、生まれながらの富の偏在と画一的な賃労働を生む資本主義には不満がある。
だが、全ての人間が寝て暮らせる時代は無かったし、他者との距離は資本主義以前の社会の方が近かった。
だから、もうしばらく降りないで働いてみようと思った。
一応、資本主義は人間嫌いな私にはそれなりにフィットしているような気がするから。

 
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私が今回読んだ「薄い解説書」。
『大学四年間の哲学が10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)で推薦図書として挙げられていたので最初に読んだのだが、要点がわかりやすくまとまっているとても良い本だった。
資本論の概要の説明が100ページくらいでされている恐るべき本(残りの150頁ではマルクスの生涯と最近のマルクス研究について解説している。)。
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「厚い解説書」はこちら。
著者のハーヴェイはニューヨーク市立大学で経済地理学とマルクスを研究しており、米国中で資本論の講義をしている。
本書は資本論を読み通すためのガイドとして書かれたもので、資本論の構成に沿って適宜原文を引用しつつ、現代的な解釈も絡めた説明をしている。
読みにくい本では無いのだが、初めの数章は原著がそもそも難解なので、200ページ位までは全部理解しようとして読まないほうが良いと思う。 
 

『生きるのがつらい』療養論2 僕は機能不全家庭の子供だった

知らない言葉であっても既知の情報から意味を類推できる能力は、人間の持つ優れた能力の一つだ。
だが、類推は時に誤解を生み、その誤解が修正されること無く、間違った情報として認識されてしまうことがある。
「情けは人のためならず」が情けをかけるとその人のためにならない(だから人には厳しくせよ)という意味だと誤解されたり、「気のおけない人」は気を許してはならない油断ならない人物のことだと誤解されたりする。
アダルト・チルドレンもそのような誤解を受ける機会が多い言葉の一つだと思う。
私も正確な意味を知るまでは、この言葉は「我儘でこらえ性のない子供っぽい大人」を意味すると思っていた。
事実は全く異なる。
アダルト・チルドレンという言葉はもともとアルコール依存症治療の場で生まれた言葉だ。
アルコール依存症家庭に生まれた子供は、大人になってから親のように依存症になったり、依存症のパートナーを持つようになる事例が多いという。
アダルト・チルドレンは正確にはアダルト・チルドレン・オブ・アルコホリクス(Adult Children of Alcoholics)、すなわち「アルコール依存症の親を持った子供が成人した人」という意味だ。
現在では、アルコール依存症に限らず、コミュニケーションの不足やルールの強制が顕著な家庭(機能不全家庭)で育った人を指すようになった。
つまりアダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー(Adult Children of Disfunctional Family)である。
アダルト・チャイルドは「自分の欲求がよくわからない」「ありのままの自分で良いと思えない」「自分が大切な存在だと思えない」といった自己の喪失や自己否定感を持ちやすいという。

僕は機能不全家庭の子供だった

私の生家が結構機能不全な家庭であったことは以前に書いた。
強権的で癇癪持ちの父と妄想癖で嫉妬深い祖母に気を使う必要があり、私は家の中に諍いが起きないよう気をもんで過ごした(あるいは今でも気をもんでいるのだと思う)。
そして、長子の私は、自分の誕生が母をそのような家庭に縛り付け笑顔を奪った原因なのではないかと心の奥で考えていた。
全てを生育環境に帰責するのはフェアではないが、「人を信じられない」「弱音を吐けない」「頼みごとが苦手」「他人の顔色をうかがってしまう」「音に敏感」といった私の形質は生育環境に依る部分が小さくないと思う。
こちらのサイトにあるように、同じように感じる機能不全家庭の出身者も多い。
リンク:会話のネタ速報 日常的な両親の喧嘩が子供に与える影響とは? http://muravillage.com/ryousinkenka-kodomo-1760

自分の過去と向き合うために

私は、自分の生き難さの原因が生育環境にあり、同じような理由で苦しんでいる人がいると分かっただけで、ずいぶんと救われた気がする。
とはいえ、一般論を知るだけでは不十分だ。
過去は変えることが出来ないし、気の持ち方で今から別人になれると考えるには、私たちはこの問題と長く付き合いすぎている。
切り裂かれるようにつらくても、自分の過去と向き合う必要があるのではないか。
結局私は、以下の本のワークを自分でやってみた。
アダルト・チャイルドが自分と向きあう本(編集:アスク・ヒューマン・ケア研修相談センター、出版:アスク・ヒューマン・ケア)
アダルト・チャイルドが自分と向きあう本 [単行本]
(発行元はアルコール依存症に関する情報提供等を行うNPOを母体とした出版社)

本書では、以下のようなワークが紹介されている。
・原家族にあった問題と無言のルールを明らかにする
・子供の頃の自分にとって不安だったことを振り返りそれを癒やす
・子供の頃の自分の家庭内における役割を振り返る
・自分が原家族で獲得したルールを新しいルールに置き換える
・幼少期から思春期の癒やされていない悲しみを発見し誰かと分かち合う
率直に言って、一つ一つがとても重く感じた
140ページにも満たない本だが、余白に自分の回答を書き込みながら読んだため、読了後は疲れ切っていた(途中で吐き気もした)。
本の中でも書かれているが、不安定な状況では避けたほうがいいし、可能なら信頼できる援助者と共にやるべきだ。

だが報酬は十分にあった。
例えば以下のことは、実際に言語にして初めてわかった。
・強制されたルールについて
私の生家の共依存のルールは「問題について話すな」「従え(従うまで不機嫌になる)」というものだった。
だから、大人になっても仕事でこのような場面に出くわすと狼狽していた
・自分の役割
私は家族の中の自分の役割を「しっかりした子(ヒーロー)」で「世話焼き(ケア・テイカー)」だと思っていたのだが、実際は「おとなしくて面倒をかけない子(ロスト・チャイルド)」だったのかもしれない。
問題を起こさないことが第一であり、自分が主張すると周りが不機嫌になると思っていたのだ。
そして、この主張しなさ、勇気のなさによる不作為が、結果として祖母の妄執に加担し母に手間や苦労をかけたことがある。
私の加害意識の根っこを見つけた気がした。
・承認と報酬
私はあまり褒められたことがなく、家族に信頼されていないと感じていた。
たぶん、運動神経が鈍く転んで傷を作ることが多く、いじめられたこともあるため、家族の中で私はずっと「弱い保護すべき対象」だとみなされていたのだろう。
そして、勉強だけは昔から得意だったが、それで褒められたことは無かった。
それゆえ、大人になっても他者からの承認と報酬を過度に求める傾向にあったように思う。
仕事が順調なうちは、家庭では不十分だった承認も報酬も十分に受け取ることが出来たのだ。
だが、これは共依存の場所を変えただけだ。

鎖を解き放つ

「過去の自分がほしかったものは、今の親からもらう必要はないのです。仲間や、そして何よりあなた自身が、それを与えてあげることができます。」
上記の本の終盤に書かれていた言葉だ。
自分を縛る鎖を見つけたら、そこから解き放たれよう。
親との間に境界線を引いて、自分の欲求を満たしてあげよう。 
そのように考えることで、しがらみから一つ解放された気がした。
 
困難かもしれないが、生きているうちに家族を愛せるようになりたいと、少しだけ考えるようになった。
うまく出来るか分からないが、私の家庭の悪役達もそれぞれの生き難さがあり、それゆえ選択肢が少なかった人たちなのだと考えてみようかと思った。
そのためには、やはり自分が鎖から解き放たれなくてはいけない。

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関連記事:「人を信じられない病-信頼障害としてのアディクション」の書評
依存症の背景に生育環境に起因する生き難さがあり、人間不信ゆえにモノに頼る傾向があるのではないかと指摘する本を紹介した記事です。


記事で参照している本です。ワークは結構キツイので、文中の注意(うつや依存症から回復途上にある時は避ける、援助者とやる)に従ってやった方がいいです。

古い本ですが、アダルト・チャイルドの実例(著者の臨床例をもとにしたフィクション)が多く紹介されており、回復に向けたステップも示されています。アルコール依存に的を絞っていますが、他の機能不全についても当てはまる部分は多いと思います。

関連記事で紹介している本です。生育環境→人間不信→物への依存という構図は説得力がありました。ただ、回復のために取るべき方法はあまり書かれていないです。

『生きるのがつらい』療養論1 うちなるカウンセラーを持つために

うつで休んでいる間、自分の感じる生き難さについてずっと考えていた。
決定的な答えはなかなか出ないのだが、掲題のエントリーで自分にとって有用だった考え方を紹介して行きたい。
「会社勤めが辛い」「人間嫌い/人間不信で他人とのコミュニケーションが苦痛だ」「家族が苦手だ」「働いてまで生きたくない」といった私と同じ悩みを抱える方々の一助になれば嬉しい。

私の構造と社会の構造

初めから意図していたわけではないのだが、結果的に私の取ったアプローチは、自分と社会の構造を考えることだった。
「自分の構造」というのは、自分が感じる辛さは環境や人間の本能に起因するということだ。
アダルト・チルドレン、進化心理学などの考え方が参考になった。
「社会の構造」というのは、社会のシステムや常識や行動様態の一部は、人間に苦悩を与えるということだ。
ここでは資本主義を巡る議論(分業、競争、分配、不平等)と、フーコーの哲学が参考になった。
こうして、自分と社会の構造を客観化することで、個別の苦悩や抑うつを引いた目で見られるようになった。
また、苦悩や抑うつを客観視するための手段として、認知療法のアプローチを覚えた。

言うなればこれらは「健全な他者転嫁」を行うためのフレームワークづくりだ。
自分の一部を、生育環境やヒトという種族の問題として切り離す。
また、苦悩の一因が社会の土台の部分にあることを認めて、自分の対処可能な問題から切り離す。
ただし、ここで自分の全てを制御不能なものとして切り離してはいけないし、社会のすべてを自分には対処不能なものとして諦めてもいけない。
全てを他者転嫁した後に待っているのは、自分にできることは何もないという絶望だけだ。

うちなるカウンセラー

心理学者の諸富祥彦氏は『生きるのがつらい』(平凡社新書)というストレートなタイトルの本を書いている。
論理療法や内観法といった臨床心理学のアプローチを紹介し、「生きるのが辛い」という感情に対してどのように対処するのかを述べた実践的な本だ。
同書では、最終目的は自分のつらさを客観視して助言できる「うちなるセラピスト」を作ることだと述べられている。
私はこれを目指した。
ただ、自分で自分に癒やしを与えるというのはこそばゆい感じがするので「うちなるカウンセラー」を作ることにしたのだ。


少しずつまとめて行きたいと思うので、よろしくお付き合いください。



繊細なシミュレーション装置は悲しい物語を嫌う

昨年の末くらいにデンマークの心理療法士が書いた『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』(著者:イルセ・サン、邦訳:枇谷玲子、出版:ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本を読んだ。
HSP(Highly Sensitive Person、非常に敏感な人)という概念について説明して、HSPの特徴や陥りがちな悩みと対処法について述べられている。
ざっくり分けると、人間の5人に1人がHSPに該当するとのことだ。

冒頭にHSPのチェックテストがあり、60点以上の場合はHSPの可能性が高いとするテスト(-52点~140点でスコアが出る)で、私は73点だった。
設問を幾つか紹介すると、「音や匂いに敏感」「人といると疲れる」「一人でも楽しめる」「誰かが怒っているとそれが自分に向いていなくてもストレスを感じる」等には当てはまったが、「暴力シーンが苦手」等の項目は当てはまらなかった。
(『時計仕掛けのオレンジ』の浮浪者や作家をフィリーするシーンは大好きだ。)
本全体でも、自分に当てはまる内容とそうでないものがあったが、「社会は鈍感でタフな人間の価値観で作られており、繊細さなどが過小評価されている」という指摘には救われた気がした。

考えてみれば、昔から悲しい物語が苦手だった
HSPの気質がある人間としては、登場人物の心を推し量って必要以上に共感してしまうのかもしれない。
悲しい物語の中でも、理不尽に襲いかかる暴力に対して助けが差し伸べられないような話を特に苦手としていた。
例えば
無実の罪で罰せられる
自分や愛するものが被害を受けたが加害者が罰せられない
理由なく悪意の標的になる
といったものは続きを見るのが辛くなってしまう。

橘玲が「心は社会的な動物である人間が群れに適応して子孫を残すためのシミュレーション装置だ」という旨のことを書いていた。
群れに適合して生きるために他人の感情や思考をシミュレートする機構が心だとすると、共感性と繊細さに優れた人間は有利な道具を持っているとも言える。
実際、自分が折衝や調整に長けていると感じたことがあるし、それが評価につながった経験もある。
だが、それとは裏腹に心は疲れていた。
シミュレートした他者の感情や主張に、押しつぶされそうになる
ひたすらに放っておいて欲しいと思うようになるのだ。

『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』では、HSPは生まれもった気質であるということが書かれていた。
ただ、私はこれには結構後天的な要因も作用しているのではないかと思った。
逆説的だが、人間不信や他者への恐れが強い人間ほど、敏感な心を持ち、他者の顔色をうかがうようになるのではないだろうか。
 
 
プロフィール

執筆者:マイナスニキ

30代会社員。
会社と業務は何回か変わったが、金融業界で10年ぐらい働いている。
会社勤めが好きじゃなく30歳くらいの時からアルコール依存気味になる。ここ数年は断酒とSLIPの繰り返しでうつ休職もしていた。
一人で出来る生業を見つけて会社に勤めないで生きることが目標。
好きな作家は太宰治と沢木耕太郎。

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