帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

カテゴリ: 生きるのがつらい

誰かに向かって「生きろ」と言うのは「死ね」と言うのと同じくらい暴力的だと思う。
辛いことがあっても最悪死ねばよいというのは私にとって救いだからだ。

「親が悲しむから生きろ」とか
「友人が悲しむから生きろ」とか
「そんなことに負けてどうする、生きろ」とか
そのような一般的な助言をされるよりは「今が辛くても幸せでも死んだら全て終わりになる」と考える方が気楽で、逆説的だが生きることに肯定的になれる

「生きろ」と言われるのが苦痛に感じる理由は2つある。
1つは自分の瑕疵を責められているように感じるからだ。
「生きろ」と言われると、
「生きることに肯定的でなければならない」
「人生は幸福でなければならない」
というような価値観を押し付けられているような気分になる。
そのように考えられない自分は欠陥を負っており、それを克服しなければならないような焦燥に駆られる。

2つ目は、生きることに肯定的になれない自分を惨めに感じるからだ。
世間の多くの人間は死ぬよりも生きる方が良いと考える。
すなわち彼らは、生きることには価値があり、少なからず幸福を感じているということだ。
それと比べる自分が惨めに思えるのだ。

とはいえ、死は不可逆的だから実際に死んでしまうと取り返しがつかない。
(時間が巻き戻らない以上、本当は生も不可逆的なのかもしれないけれど。)
坂口恭平『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動だ」と言っている。
希死念慮に対して感情的に怒ったり悲しんだりすると、本当に死んでしまう。
部品が摩耗して休止か交換を訴えているのだと考えて、機械が故障したときのように、電源を止めて故障を観察すればよい。
そのように述べている。
なぜ生きなければいけないのかという理由は語らないが、この考え方は押し付けがましくなくて好きだ。


実家があまり好きじゃないけど、盆と正月は一応顔を出しているという人も結構いると思う。
正月帰省すると言うと同僚などからは「ゆっくりして来てね」と言われることが多いがとんでもない。
一人で過ごすほうがよっぽどゆっくりできる。
ここで顔を見せておくと一年の残りの日々は生家から距離を置いて過ごせるので、ただただそのために帰省している。

滞在時間が短くても顔を見せてる印象を作れること

金融業界だと会社の休日は基本的にカレンダー通りだ。
事業会社に勤務する友人に言うと驚かれることもあるが、盆休みは無いし土日に被らなければ年末は12月30日まで仕事だ。
証券取引所も開いているし、日銀ネットも稼働している。
(業界としては繁忙な時期ではないので有休を取得する人もそれなりにいる。それはまた別の話。)
盆は近くの土日だけ戻る。正月は31日の午後に着いて2日の夜には発つ。
こうすると、滞在時間は実は少なくて済むが、その割にちゃんと帰省しているような印象を作れる。
「たまには帰ってこい」というような対処に困る連絡を受ける可能性を減らすことができるだろう。

厄介ごとが起きてないか確認するため

病気や犯罪や人間関係の厄介ごとが起こっていないか半年に一回くらいは確認しておいたほうが良いのではないかと考えている。
詐欺師が入り込んでいるかもしれないし、宗教にはまっている人間がいるかもしれないし、壺を買わされているかもしれない。
大きなトラブルになると年に2回帰省するよりももっとしんどいので、定期的な監視をしておいた方が安心なのだ。
捨てるのが難しいので定期的にメンテナンスするような感覚だ。 
認知の歪みもあるが、私は自分の家族は自分に対して厄介ごとを起こす気を許してはいけない存在として見ている。

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従って、盆と年末年始の帰省は費用対効果に優れリスク管理上も意義のある行為だと思います。
別に楽しくなくても上記の理由からとりあえず顔を出してくるという人を当ブログは応援します。

本年はお世話になりました。
良いお年をお迎えください。

 

認知療法の本を読むと、「自己評価の低下」はうつ状態の人に典型的な認知の歪みだという。
自分のことを無価値に感じる
自分は生きていてもしょうがない
自分が嫌いだ
そのように考えてしまうという。

どういうわけか、私はあまりこういう感じ方はしない。
死にたいと思うことはあるが、それは自分が嫌いで無価値だと感じるからではない。
程度の良い大学を出て、仕事で評価された経験があり、収入も平均以上なので、自分はかなり有能だと思っている。
私が死にたいのは、労働をしなくては生きられないことや人間関係が苦痛で、そこから逃れたいからだ。
私は自分が大好きで、自分以外が嫌いなのだ。
だが、そのような自己評価とは裏腹に、自分はとても気持ち悪い存在だと考えている。
自分は誰からも愛されず、自分に愛情を向けられると相手は気持ち悪い思いをすると考えている。

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ここ数年間、働いたり人と話すのが辛くて仕方が無かった。
だが、振り返ってみるとこれまでの自分の人生の舵取りに決定的に誤ったところがあったわけではない。
そう、自分としては最良ではなくとも悪くない選択を重ねてきた
それなのに辛くて仕方ないのだ。

「決定的な誤りが無い」と言ったが、これは苦悩や挫折を知らないという意味ではない
自分に与えられたリソースと可能性の中で、自分はどうすれば良いのか、悩みに悩んで生きてきた。
「地元にいたときも離れてからも、自分が壊れない範囲で家庭内のいざこざに気を使って生きてきた。」
「金は無いが地元から離れた大学に行くために現実的な選択肢を選んだ。」
「大学院に行きたかったがこれ以上親の世話にはなりたくないので働くことにした。」
家族と資金について完全な自由が与えられていたら、これらの選択はしていなかったかもしれない。
だが、現実に私の置かれていた状況では、これ以外の選択肢を取った場合、自分の周りで何かしらの不都合やいさかいが起きていたと考えている。
不都合やいさかいと戦わなかったという点では、「自分にとって最良の選択」ではなく、「自分にとって安全な選択」に逃げていたとも言える。
だが、不都合やいさかいと戦って自分が壊れてしまうことが怖かった。
それほどに、私は肉親も含めた他者が怖かったのだ。

反出生主義に私が共感してしまうのも、そのような背景ゆえだと思う。
幸福が感じられない理由を探す。
だが、人生のどこかに決定的な後悔があるわけではない。
自分なりに納得できる選択を重ねてきて、それでも幸福が感じられない。
そうなれば、原因を出生に求めるしか無い。

もしくは、私の人生の舵取りは自分が評価するほど立派ではなく、どこかに決定的な誤りがあるのだろうか。


 

30歳前後の時分から、ずっと考えている。
なぜ望んでもいないのに産み落とされ、労働や人間関係で疲弊しながら生きるのか。
答えは出ないのに、ぐるぐると、ぐるぐると。

きっかけは労働苦だったのだと思う。
もう10年間働いてきたが、どうしようもなく疲れてしまった
朝決まった時間に起きるのが嫌だ。
わざわざ電車に乗って事務所に通うのが嫌だ。
案件を上司に説明して決裁を得るのが嫌だ。
社外の関係者と話すのが嫌だ。
社内の関係部署と話すのが嫌だ。
昼飯を家で食べられないのが嫌だ。
振られる仕事に対して選択権が無いのが嫌だ。
そもそも人と話したくない。
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タイトル:人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション
著者:小林桜児
出版社:日本評論社

依存症(アディクション)の背景には人間不信があるという仮説に立って、依存症者に見られる傾向や目指すべき方向が述べられている。
著者は、慶應義塾大学文学部卒業後、信州大学医学部を卒業した現役の精神科医だ。
現在は、依存症治療の専門医として臨床にあたっており、本書でも臨床例の紹介が豊富に出てくる。

筆者によれば、現代の精神医学では、依存症は遺伝的要因脳障害によって説明されるとのことだ。
アディクションを発現しやすい遺伝子の組み合わせを持った人間が、実際に依存物質を使う中で脳に対する害が進行し、やめたくてもやめられない状態になる、という理屈だ。
だがこの論理は、依存症者が依存行動を10年以上絶つことができたが、その後に再び依存症になるような場合の説明として弱い。
本書では上記とは異なるアプローチとして、依存症者の抱える「生き難さ」に着目する。
そして、「人間を信頼できないからモノに頼る」という論理が依存症の背後に見られることを指摘する。
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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでいて思ったことだ。
著者のマーク・ボイルは、食い物や環境負荷について結構なこだわりがある人間のようだ。
オーガニックの野菜にこだわりがあり、サプリメントの使用は論外だと言う。

対象的に、私は生活にかかる費用は安ければ安いだけ良いという主義だ。
食事であれば、安価な炭水化物で空腹を紛らわして、不足するビタミンとミネラルは安価で簡便なサプリメントで補えば良いと考えている。
食事だけでなく、衣食住のような生命の維持にかかる出費は現代人にとって呪いのようなものだと考えている。
それらにかかる費用を最小限に抑えれば、それだけ理不尽な労働から逃れられる。
人生の切り売りから解放される。
望んでもいないのにこの世に生を受け、労働により糧を得なければ生命を維持できない。
労働への憎悪が、生命と生活への憎悪につながっているのだ。
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