帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

カテゴリ: 生きるのがつらい

先日、永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に生きましたレポ』を読んだ。
レズ風俗に関する内容は後ろの半分くらいで、前半は著者の生い立ちや病んでしまった経験が書かれている。
私もうつ体質なので共感しながら読んだ。
著者は今Pixivコミックで『一人交換日記』という連載を持っていて、そちらも併せて読んだ。
(リンク:一人交換日記) 
少なからず問題がある家庭のようで、母親に対する思いは自分と似たようなところがあるような気がした。
掲題の通り、私には「母親は自分のせいで不幸になったという負い目」があるのだ。

私の家族の問題

父親は気に入らないことがあると怒鳴り散らす暴君だった。
風呂場で石鹸がない、物が壊れた、野良猫が五月蝿い、そのようなことも家族の責任であるかのように怒号をあげた。
息子の目から見て、この人は学問でも仕事でも優れた成果をあげたわけではない。
にもかかわらず他人を見下しており、自分が他者より高い場所にいるような振る舞いをした。
幽遊白書で、玄海師範が魔族になった幽助に向かって「人はだれでも自分の意志で壊せるものがある。あんたはそれが他人より大きいだけだ。」という旨のことを言って、突き放しつつもなぐさめる場面がある。
父親にとって「家庭」とは、自分の意志で壊せる小宇宙だったのだろう。
それは中心にいない者達にとっては地獄だ。
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これまで「生まれてこなければよかった」というテーマで2つ記事を書いた。

この2つは、当ブログの中でも検索エンジンから見に来ていただく方が多い記事だ。
こんな過疎ブログでも、「生まれてこなければよかった」で検索するとGoogleの5ページ目に出てくる。
(以前は2ページ目に出てきてたんですよ。下がって結構ショック。)
生き難さを感じた人が陥りやすい感覚でありながら、あまり口(文字)に出して言う人が少ない言葉なのかもしれない。

「生まれてこなければよかった」 という言葉は、「生まれてきたことは悲劇で、しかもそれは自分の意志ではなく親の都合である」という、責任の所在を親に求めるスタンスを内包している。
最近、思うところが2つあった。

他者転嫁の効用と限界

9月下旬に一人の青年が自分の自殺をUstreamで配信した。
大手メディアでは取り上げられていなかったようだが、ネットの一部で話題になった。
青年は、自身のホームページに彼の人生に関する情報を結構な分量で書き残していた
そこでは、問題のある家庭で育ったことや、母親への呪詛が語られている。
(興味のある方は「ケンモメン 自殺」で検索してみてください。気持ちのよい話ではないので苦手な方は読まないほうが良いです。)
青年の過酷な家庭環境には胸が痛くなった。
だがその一方で、自分が人生を楽しめない理由をあまねく外部環境に転嫁していることについて気が滅入ってしまった。
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金持ちの家に産まれた人間が憎い。
仲の良い家庭に生まれた人間が憎い。
家族や友人や教師から肯定されて育った人間が憎い。
人と話すことが好きな人間が憎い。
他人を信頼できる人間が憎い。
自分に自信のある人間が憎い。
毎日の仕事が楽しいと感じる人間が憎い

どうして自分は幸福ではないのだろう、とよく考える。
私の不幸の源泉は、上に挙げたような憎たらしい人間の持つ要素を持っていないからだ。
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昔から人に頼み事をするのが苦手だった。
特に仕事に関する場合において顕著だ。
人間不信と自分が働くのが嫌だからというのが理由だと思う。
(人間不信については人間失格の話で書いたのでよろしければそちらもどうぞ。)

人間不信だと頼みごとがしにくい

相手に頼み事をするのを、借りを作る行為だと考えている。
借りを作ると、次の相手の頼みごとを断りにくくなる。
自分が弱い立場になったような気がする。
他人は自分より強い立場にある時は、自分に対して理不尽な要求をすると考えている。
実際はそんなことはそう頻繁にないのだが、人間不信ゆえに認知の歪みを拭えない。

自分が働くのが嫌だと頼みごとがしにくい

労働はとても嫌な行為だと思っているので、他人にそれをさせるのに気が引ける。
メンタルが弱っているときや、多忙を極めているときは、自分に対して仕事を振ってくる人間は全員死ねば良いと思う。
何度か口に出して言ったこともある。
これもまた認知の歪みなのだと思う。
本当は、世の中の多くの人間は自分ほどには労働を嫌っていない。
仕事を愛している人間もそれなりにいる。

相手が淡々と引き受けても、嫌な顔をして引き受けても、仕事を振った私に対して復讐するのではないかと恐れている。
労働をさせた自分に対して憎悪をつのらせ、酷い報復をするのではないかと恐れている。

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ここまで書いてしまうと結構病的なのだが、包み隠さず言うとこのような思考ゆえに頼みごとが苦手なのだ。
実際は人に頼られるとそれはそれで嬉しいものなので、あまり気に病まない方が良いのだろうけれど。

ある日の昼下がり、大型商業施設の1階にあるシュークリーム屋に立ち寄った。
バニラの芳醇な香りのする濃厚なカスタードクリーム、
スーパーやコンビニの商品には無いビスケット生地のサクッとしたシュー。

10個買い求めた。
「今日はこれから実家に行くのですが、妹夫婦も子供を連れて遊びに来ているんですよ。
私の妻と娘と父母と妹の家族、8つで良いのだけれどキリの良い所で10個。」
そのような設定だ。

家に着くと、シュークリームを取り出した。
一つは窓に向かって投げつける。
柔らかな洋菓子とはいえ、速度が加わると相応な衝撃となるようだ。
窓ガラスが割れはしなかったものの、「ドン」というおよそ似つかわしくない音を立てた。
小気味良い。
次は壁へ、テレビへ、PCモニタへ、次から次にシュークリームを投げつける。
いけない。
もう6個も使ってしまった。
部屋中に甘い匂いが漂う。

次は両手でシュークリームを掴み、握り潰した。
クリームで汚れた手は着ていたシャツで拭いた。

湯を沸かしカップラーメンを作る。
とんがらし麺は定期的に新作が出るけれど、最初のはどんな味だったっけ。
中学の時の友人が好きだったから、20年前くらいにはもうあったよな。 
ラーメンにシュークリームをぶち込み混ぜあわせる。
ご馳走が汚物になってしまった。

腹が減った。
残った一つは普通に食べよう。


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ベロンベロンに酔っ払いながらこのようなことを考えた。
食べ物を粗末にするのはNG。



 

ここ数ヶ月、平日がまったく楽しくない。

朝は6時には起きているのだが、出社時間ぎりぎりになるまで起き上がれない
時計が進むのを見たり、タブレットでニコニコ動画を見て気を紛らわす。
流石に夏場なのでシャワー浴びるが、5分くらいしか時間が取れない。
カラスの行水、そんな言葉が頭に浮かんだ。
通勤中も音楽を聞きたくなくなった。

なんとか出社し席についても午前中は思考にもやがかかった状態で辛い。
優先のタスクをもやのかかった状態でも出来ることから進める。
ダメなときはトイレの個室や非常階段で、「会社辞めたい」「死にたい」と検索して少し落ち着く。
何も出来ない時はじっと手を見ている。
アウトプットさえ出ていればこれでも文句を言われないのはまだ良い方なのかもしれない。
昼飯は食わない。
とはいえ事務所にはいたくないので、コーヒーショップや公園に避難して「会社辞めたい」「死にたい」と検索する。
または、2ちゃんねるの転職板の「朝起きたら鬱だ会社行きたくない」スレッドや、リーマン板の「生きる意味が分からないリーマン」スレッドを見て落ち着く。
午後は少し気持ちがましになる。
仕事が終わっても帰りにストロングゼロをしこたま飲んで気絶するように寝てしまう。
オフィスを出たその瞬間から、もう既に明日が来てほしくない。
寝ている間に世界が滅んで欲しいと、久しぶりに思うようになった。

休日は楽しい。
普通に起き上がれるのだが、それでも朝から酒を飲んでしまうことが増えた。
さすがにもうダメかもしれない。
楽しかった日々はもう戻らない。
いや、それとも毎日が楽しかった時期なんて昔から無かったか。
いずれにせよ毎日こんなに辛いのはおかしい。


 
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綺麗事を言う人間に腹が立ってたまらない時がある。

「死にたい」
「生まれてこなければよかった」
「働きたくない」
「疲れた」
「独りでいるのが好きだ」
「結婚する気はない」
「子供はいらない」
「人と話したくない」

こういう主張に対して正論で反対することは簡単だ。
こちらはこちらで、綺麗事の反論は言われ慣れているし、こう来るだろうと想像し易いので、いちいち傷つかない。
ただ、相手が自分が抱えているような悩みを持ったことがないのだろうということに対して、妬ましくて狂いそうになる。
幸い、私の親しい人間たち(家族以外)は、苦悩にも多様性にも理解があるので、頭から否定するようなことは言わない。
ただ、綺麗事に対して口論に近い口調で論駁してしまい、それ以降没交渉になった人もいる。

生まれてきてよかったと考えている奴がいたら、それは嘘だと思う。
サラリーマンのくせに働くの楽しいという人間は、労働より楽しいことを知らないのだろうと思う。
一人でいるのが楽だということや、人と話すのが苦痛だということが理解できない人は、他者に対する想像力が足りないと思う。
社会を必要とする人間と、必要としない人間がいるのだ。

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