帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

カテゴリ: 生きるのがつらい


反出生主義というのは一言で言うと「生きるのは不幸なので親の都合で子供を作るのは良くない」という思想だ。 
2ちゃんねる以外では長らく見ることがなかったが、いつのまにかWikipediaにも記事が出来ていた
ショウペンハウエルと埴谷雄高以外の論者はよく知らなかったのだが、現代だとケープタウン大学のデイビッド・ベネターという人が有名らしい。
(ちょっと探したが残念ながら訳書や解説書はなさそう。)

世界は不幸に満ちている

反出生主義の肝は、単純に自分が生まれてこなければよかった、というだけではなく、子への道義的責任から子作りを否定することだ。
人生は不幸だという前提のもと、親である自分の「子供が欲しい」という欲求で不幸な生を作り出すことに疑問を呈する。
これに対して「不幸な人間がいじけているだけだろう」という反論は良くなされる。
だが、自分が作った子供がそのような不幸な人生に陥らないという保証はない。
障害を持って生まれてくるかもしれない、いじめや事件・事故の被害者になるかもしれない、望むような職に付けないかもしれない、自分が認知症や身体が自由ではない状態で長生きしてしまい子供に負担をかけてしまうかもしれない、
少し想像力を働かせれば、不幸の種が自分の近くにも蒔かれていることに気づくだろう。
現代人にとって悩ましいのは、昔と比べて不幸な人生に関する情報が入手しやすくなっていることだ。
介護苦、隣人トラブル、家族トラブル、いじめ、就職苦、劣悪な労働環境
ニュースになるような大きな事件ばかりではない。
匿名掲示板に書き込まれた報道されないような不幸であっても、PV稼ぎのためにまとめられ拡散されていく。
そして、僕たちの脳みそは生起確率の評価がとても不自由だし、いつの間にか問題を自分が経験した単純な問題に置き換えてしまう。
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「生まれてこなければよかった」という行き場の無い思い

私も含めて、「生まれてこなければよかった」と考える人は、この反出生主義にはだいたい賛成の立場だと思う。
だが、最初の「生まれてこなければよかった」記事でも書いたのだが、この「生まれてこなければよかった」という感覚を理解できる人は少なく、正論・感情論で反論されることが多い。
また、実際に親に向かって言っても皆が悲しくなるだけだ。
これほど多様性が認められる現代でさえ、匿名掲示板や個人ブログ以外に、どこにも行き場所がない感覚なのだ。 

インターネットで「生まれてこなければ良かった」という言葉で検索すると、家族関係で悩む青少年の声が多く見つかる。 
特に幼少期の狭い交友関係では、家庭は世界とほぼ等しい。
そこが自分にとって居心地が悪かったり害を為す場所だとしても、逃げ場が無いのだ。 
私の生き難さの背景にも、青年期にかけての家族の影響は一定程度ある。
怒鳴り声や家族の不和に怯えながら布団にくるまっていた少年は、幸福な家族像を知らないまま大人になった。
正月早々両親と祖父母が喧嘩し、不和を収めてほしいと水神様のお社になけなしの500円玉を奉じてお祈りをしたりした。小学生の少年がである。
機能不全家庭において、私は「ヒーロー」としての役割を忠実に果たしていた。
結果、親元を離れるころまでに、一生分の家族への気遣いをしてしまったのだと思う。

労働苦

家族の問題と比べると、労働苦を背景に生まれて来なければよかったと言ってる人は少ないように思う。
単純にいい年した大人は労働苦でもそんなことは考えないということなのかもしれない。
だが、私がここ数年ペシミスティックになる原因は、労働苦によるものが多い。
組織での労働に磨り減りまくった結果、そうしないと生命を維持できない人間の生に絶望してしまった。
人生を奪われている感覚があるのだ。 
 
―なぜ、自分の時間を切り売りして働かなくては生命を維持できないのだろうか 
それは換言すれば生命と身体を維持するために時間を浪費することだ。
時間とは人生に他ならない。 
草や木と比べて人間の生は不完全で不幸だ。 

―なぜ、気に食わない他人と話したり協調して仕事をしなければいけないのか 
他人がいると休まらないのだ。
気を使うのだ。 
生命の維持に必要な金銭を得るための行為にそれが求められるからタチが悪い。 
死ねば楽だなぁ、と考えてしまう。

生命の維持と表裏一体の人生の切り売りの課題を解決しない限り、どこまでも不幸だと感じてしまう。 

関連記事
生まれてこなければよかった その3 他社転嫁とインナーチャイルド(少し前向きな話)


※追記
2017年の秋ぐらいに、ベネターの著書をちゃんと読みました。
新ブログの方で詳しく取り上げていますので、興味を持たれた方は是非あわせて御覧ください。
新ブログ
不適合者とベネターの反出生主義




ショーペンハウアーは『自殺について』が有名だが、別に自殺は肯定していない。
むしろ、本能からにじみ出る『意思』を克服することに重きを置き、それがニーチェの思想につながる(間違ってるかも。)

昨年初めて、一人専用のカラオケ店に行った。
チェーンの「ワンカラ」という名前の店だ。
一畳半程度の、ブースとでも言うべき個室で、ヘッドフォンをしながら歌う。
おそらくスピーカーから音を出さないため、音響設備を省略できるのと、防音が簡易的なもので良いというコスト上のメリットがあるのだと思う。
都内だと何店舗か見たことがある。

その後も何回か行っているのだが、毎回最初の10分間は歌を歌っていない。
ただ、大声を出して叫んでいる。
 
「んんんんんんんんんんんんんんんぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、
死ねっ、死ねっ、しねっ、クソがぁぁぁぁぁっっぁぁ!
ダーイ、○○死ね、クタバレ、糞野郎、クソヤロウ、
ぴいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぎゃああああああああああああああああああああああああああああ」
というような罵詈雑言をひたすら叫んでいる。

10分位やると落ち着くのだが、その時にはすでに喉がカラカラ。
誰が聞いているわけでもないので、適当にキーを下げてミスチルなどを歌って帰ってくる。

はっきり言って異常だ。


 

自分は自分の愛する人から愛されないという確信がある。
自分の好意は自分の愛する人から見れば気持ちの悪いものであるという確信がある。
自己評価が低いため、自分の愛や献身には便所紙ほどの価値もないと考えている。

負けぬよう、死なぬよう、食らいつき、研鑽し、それなりに多くのものも手に入れた。
知識、仕事、資産、苦悩
いずれも歴史に名を残すほどのものではない。
ただ、同世代の人間では頑張ってる方だと、この点については自分で自分を評価できる。
それでも、自分は愛され無いという確信はゆるがない。


毎日が苦痛だ。
周囲には愚かで苛つく人間しかいない。
無能な人間が偉そうにしている。
自分が愚鈍な行為をすることを強要される。
こんな生活には価値が無い。
失敗だ。すべてが失敗だ。
自分がこのような苦痛を受けることを想像せずに自分を作った人間が憎い。
勝手に作っておいて死んだら悲しむなんて勝手だ。

『生まれてこなければよかった』と言う人に対する風当たり

「生まれてこなければ良かった」という言葉を一時期頻繁に検索していた。
この考え方に対しては、手を差し伸べるような意見が無いわけではないが、批判的な意見の方が沢山出てくる。 
人間は誰しも自発的に生まれたわけではなく、誰かに作られる。
他者である親に対する批判が含まれていることが、現に親である多くの人を刺激するのが批判の多い理由だと思う。 
私も、「生まれてこなければよかった」とリアルで言って賛同を得られた経験はない。
もちろんしょっちゅう言ってるわけじゃなくて、話が通じそうな人を選んで言っているが、それでも理解を得られたことはない。

正論は救いにならない

「生まれてこなければよかった」と言う人に対して、「人生良いことばかりじゃないけど嫌なことばかりでもない」とか「子供のころに遊んで楽しかったこととか思い出してみろよ」とレスポンスする人が多い。
だが、これは愚鈍を通り越して残酷だ。
良いことが過去にあって、これからもあるかもしれないとして、それすら救いにならないような絶望や苦痛は存在する。 
このような助言は他者は決して自分の苦痛を理解できないということを浮き彫りにするし、また、他者は自分のような苦痛を感じずに生きているということを突きつけられる。

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とはいえ、私自身も面と向かって自分の親に「生まれてこなければよかった」とか「作ったことを恨んでいる」と言ったことはない。 
相手を気遣ってのことというのもあるが、関係がこじれると面倒だという気持ちが大きい。 
願わくば、いたずらに傷つけたいと思わないで済む程度の距離を今後も保ちたい。

Ozzy Ozbourneの曲に『Suicide Solution』というのがある。
アルコール依存による死について歌った曲で、Ozzyが親しかったバンドマンがアル中で亡くなったことがモチーフになっているらしい。
タイトルだけを見ると「自殺解決」なので、当時は青少年なんちゃらだのの団体がケチをつけたらしい。
アルコール依存による死に警鐘を鳴らすような歌詞なのだが、曲の中身はお構い無しだ。
自分の優位性のために他人を否定しようとする人間を黙らせることはなんとも難しい。

私も一昨年くらいから断酒とスリップを繰り返しているが、それ以前(とスリップ中)は、ほぼ毎日酒を飲んでいた。
健康診断の数字は毎年悪くなっていったし、体重も増えた。
まさに、制御出来ない飲酒は緩慢な自殺だ。

これまでに、過度な飲酒以外にも緩い自殺を2つほどした。

①息をしない 
⇒自分で息を止める。 
時間は正確に測っていないが、 1分を過ぎたあたりで反射的に息を吸ってしまった。 
もしこれが可能であれば、たとえば不慮の事故で体の自由を失っても自分の意思で死ぬという選択が出来る。
もちろんそのためには極めて強い精神力が必要になりそうだ。 
なお、某宗教団体では水中クンバカという水中で息を止める修行があったらしい。
ある若い幹部は、なんと5分以上も潜り続けた。
それでも教祖から「びびってんじゃねぇよ」と怒られたとのこと。 

②食事をしない 
⇒水を飲んでもいい断食はたまにやる。 
初めの 1日は辛いが、それを超えると 3日くらいは可能だ。
ダイエットよりは、消化器を休めることに効能があるとのことだ。 
おそらく固形食を抜くだけでは1ヶ月位死ねないだろう。
あんまり死ねないと自殺を辞めたくなるので、水も断つ方法を試した。 
根性無しで恐縮なのだがこれは一日ももたなかった。 
こんな渇きに耐えるくらいなら死ねなくても良いというよくわからない思考になったのだ。 
たしか、 2ちゃんねるで「最高峰の自殺は餓死」というスレッドがあった。 

やれやれ、おまえやる気あるのかよ、と言われそうな体たらくだ。 
おそらく、本当に死ぬ覚悟は無くて、自傷行為に近い感覚でやっていたのだと思う。 
痕も残らないし、困難ゆえに不可逆的なダメージを負うまで進んでしまう可能性も低いから安心してできたのだろう。 

生きてる事自体が緩慢な自殺とも言えるのかもしれない。
アルコールで加速させるも、拒食で加速させる、過食で加速させる、どれも虚しい。

冒頭のSucide Solutionの曲中に、以下の一節がある。
なかなかに意味深だ。 
"The reaper is you and the reaper is me."

Blizzard Of Ozz
Ozzy Osbourne
Epic
2011-06-03


 

『完全無欠の少年はコンプレックスだらけの大人になる。でもコンプレックスを克服できるから人間は面白い。』

南国少年パプワくんの最終巻の帯に書かれていた作者の言葉だ。
パプワくんはギャグとバトルとメッセージ性が入り混じった不思議な作品だった。
大学に入りいろいろな土地出身の知己を得てから読み返してみると、また違う発見があった。
本稿を書くにあたって著者の柴田氏の略歴等を確認してみて2点驚いたことがある。
1つはパプワくんは氏の連載デビュー作であり20代前半の頃の作品であること、2つ目はファミ通で連載していたドキばぐが2009年で終了していた(逆に考えると2009年まで続いていた!)ことである。

完全無欠の少年をコンプレックスだらけの大人に変えるのは何か。
経験に当てはめてみれば、それは社会に他ならないと考える。
一人の人間を取り巻く世界は、青年期にかけて大きく広がっていく。
家族という最小単位から始まり、学校、地域と広がっていき、上級の学校に行けばより広い土地から人が集まるようになる。
働くようになると、自分のそれまでの交友関係よりも大きな組織に属すようになり、また、社外の関係者も出てくる。

多くの人間と知り合うにつれて、自分が得意なことをもっと上手くやることが出来る人間がいることに気づく。
身体能力、勉学、事業、芸術といった特定分野の才能。
また、生まれ育った環境や他者からの愛の獲得において自分より恵まれている人間とも出会うだろう。
他人ばかりではなく、自分の内面にも比較対象が現れる。
人との出会いや歴史や思想を学ぶことを通じて多様な価値観に触れると、自分がこうありたいという理想像が出来る。
この理想と現実の自分とのギャップもコンプレックスになる。

コンプレックスを克服するのはタフな取り組みが必要だ。
能力を高めることには往々にして限界がある。
そのため、多くの場合、人はコンプレックスを自己愛の確立で乗り越えなければならない。
「コンプレックスがある自分自信を愛することが出来ること」、そして「コンプレックスのある自分でも人から愛される資格があると思えること」が成熟した自己愛の条件だ。
多くの場合それは身を切るような自分の本心との対話を必要とする。
無条件で愛されたことがある人間はいくらか容易になるかもしれない。

コンプレックスを克服できないと、自分にそれを突きつけた社会を恨むようになる。
自分とそれほど親しくない人間が発した言葉に傷ついたとする。
傷が深くなると、自分にとって大切な人もそのように考えているのではないかという疑念が湧き出てくる。
「社会」は伝染する。
愛する人も、仇敵も、取るに足らない他人も、自分自身も社会の一部なのだ。




世間には弱みを見せてはならない。
そこには、弱者を叩きのめし、自分の糧にしようとする者がいる。

世間に隙を見せてはならない。
そこには、抜け目なくそれを見つけ、不意打ちの機会を窺う目がある。

世間を攻撃してはならない。
そこには、受けた屈辱は決して忘れず、末代までかけてでも復讐を成し遂げようとする執念深さがある。

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私がこれまでの人生で一番多くの回数読み返した小説は、太宰治の『人間失格』だ。
以前にカウンセラーとこの話をして、なぜそこまで人間失格を読み返したのか言葉にしてみる機会があった。

「おそらく、主人公の大庭葉蔵が、世間を恐れていたからだと思う。
正直言って主人公それ自体は、裕福な家に生まれながらいじけて生きているような人間であり、苛つく。
ただ、それを補って余りあるくらい、他人を恐れて、それでも他人に理解されたくて道化を演じている、その姿に親近感を覚えたのだ。

『 自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋ひの絨緞じゅうたんが敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく(後略)』

程度の差はあれど、私の中にもこれに似た感情がある。
自分が他人にとって気に喰わないことをして、なにか恐ろしい復讐を受けるのではないかという恐ろしさがあるのだ。

私が、勉学を頑張って程度の良い学校に進学したのは、単に世間に弱みを見せたくないからだったのではないか。
私が、細かい点にも気付くのは、単に世間に隙を見せたくないからではないか。
私が、周囲に気を配ることが出来ると評価されるのは、世間からの攻撃を恐れ、また自分が世間を攻撃し恨みを買うことを恐れて終始怯えているからではないか。 」

笑われるようなことはするなと教えられた。
笑い方は教えられなかった。
私が自分でたどり着いた笑いは、葉蔵と同じ道化の笑いだったのだろうか。


人間失格 (角川文庫)
太宰 治
KADOKAWA/角川書店
2007-06-23

 

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