帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

ひねくれ

献血にさようなら

私は5年前に献血をやめた。
以前は献血を結構していた。
手元に残してある献血カードを見ると、献血回数15回とある
足掛け10年程度、年に1回ペースでは献血していたことになる。
(昔は紙の「献血手帳」に履歴を記録する方式だったが、10年前くらいに「献血カード」になったと記憶している。)

献血をするようになったのは、高校時代の恩師(教員という職業だが尊敬に値する数少ない人物)が献血を100回以上している猛者だったのでその影響を受けたのが一番の理由だ。
あと、吉田秋生の『吉祥天女』という漫画で、ダークなヒロインの小夜子さん「女は血なんて怖くないのよ。毎月血を流すんだから。」というドスの効いたセリフを言っていたのが妙に頭に残っており、男も定期的に自分の血を見る必要があるな(?)というよくわからないことを考えていた。

血液検査の結果がフィードバックされるし、大きな献血センターなら菓子を食べながら漫画も読めるので、する側にもメリットがある。
また、上記の吉祥天女の理屈で血を流すのは生物に必要なことだとも考えていた。

社会貢献やボランティアは胡散臭いと感じるが、 就職活動のエントリーシートで「ボランティア等」の項目があれば一応「献血」と書いていた。
それなりに話のネタになった。
「献血は結構曲者で、血を抜いても大丈夫な人と駄目な人でそれなりに差があるんです。
友人の筋骨隆々のスポーツマンが、血を抜くと途端に気分が悪くなってしまったこともありました。
また、輸血を受けたことがある人や、2004年までに欧州の一部の国に半年以上滞在した人も献血出来ません。
献血出来ない人が相応にいる以上、出来る自分が定期的に協力するのは意味があることだと考えています。」
リクルーターや面接官と話す時はこんな殊勝なことを言っていた。
いい子ぶる訳ではなく、結構本心からこう思っていた。
うぶだったのだろう。


血液製剤の大部分が高齢者に使用されているという統計を見てから、私は献血をしなくなった。
私はこの統計を、赤十字のホームページで見た気がするのだが、今は載っていない。
多分、若者の献血離れが3年位前にニュースになった時に消されたんじゃないかと思う。
不都合な事実なのだろう。
公的なソースとしては、以下のリンク先の「平成27年輸血状況調査結果(概要)」の4ページ目を見てほしい。
「年代別では、50歳以上の患者への使用が全体の84.5%を占め、前年(84.3%)とほぼ同じである」との記載がある
病気になるのは年を取ってからの場合が多いので、至極当然の結果なのだが、こうして数字をみるとなかなかインパクトがあるのではないだろうか。
しかも、このワーディングはかなり恣意性を感じる。
どういうことかと言うと、(概要)ではない方のファイルの7ページ目を見ると内訳があるのだが、84.5%の内訳は、70歳以上:56.8%、60代: 18.5%、50代:9.2%であり、上の記述には70歳以上が過半であるということをぼやかそうという意図が感じられるのだ。
(仕事で書く文章だとこういうワーディングすることあるよね。)

輸血の用途は、私に献血をやめさせるだけの十分な衝撃を持った事実だった。
また、この数字を見たのが働くようになってからなので、生きていくことのしんどさを知って余裕がなくなっていたために尚更突き刺さった。
望んでもいないのに生きろと言われて、仕方なく自分の時間を売って生活費を稼ぐ。
そこから、高齢者への給付のために年金を払わされて、健康保険料を払えば半分は高齢者医療に吸い上げられる。
端的に言って、生きること、働くことで罰せられているような気がしていたのだ(今でもしている)。
こんなに生きるのがつらいのに、なぜ自分を罰しようとする人間を助けるようなことをするのか。

友人にこの話をしたら「昔みたいに売血にすれば良い」という意見があった。
もっともだと思う。
世代間の富の移転に資するし、外圧と偶然の賜物である現在の献血制度を守り続ける必要はない。
ただ、そうすると闇金ウシジマくんの鰐戸兄弟みたいに、ホームレスや無職者を集めて血を売らせる人達も出てくるだろうとも思う。
(ウシジマくんはこのエピソードやサラリーマンくんのあたりが一番面白かった。)

現役世代は非受益者であるという怒りがあるし、高齢世代は自分たちには当然権利があると考えている。
最終電車(※1)の過ぎ去ったホームで、私たちは奪い取る機会を伺い、奪い取られまいと警戒している。

まぁ今の私は抗鬱剤と安定剤を飲んでるから、献血しようと思っても門前払いされるんだけどね。

※1
「社会保障制度改革の最終列車」という概念がある。
50歳以上の有権者の割合が過半数を超えると、社会保障制度の見直しは不可能になるとい考え方だ。
財政の見直しのために年金制度、医療制度をスリム化しようとすると、大きな既得権を持っている高齢世代が反対するという構図だ。
ちょっと古いがIMFが2004年に各国の最終電車の時刻表に言及した。
英国:2040年
アメリカ、ドイツ、フランス:2015年
日本は2003年だ。
最終列車はかなり前に出発してしまった。

数億匹の精子の中から選ばれて生まれたというセンスのないレトリック

命の大切さを語る時に「何億匹の精子の中から選ばれて生まれるのだから一人一人の人間が大切なのだ」というような言葉が使われることがある。
私の印象に残っているのは、小学校の時に担任だったヒステリックな女の教員だ。
当時はオバサン扱いしていたが、今の私と同じくらいの年齢だったように思う。
私のいたクラスには知能が少し遅れている児童がいて、彼をからかうような言動を取るクラスメートが何人かいた。
それが問題になって、よくある感じで理不尽にもクラス全体がお説教を食らう羽目になったのだが、その時に上に挙げたような話をしていた。
当時の私は流石にまだ反出生主義ではなかったけど「そんなんただの生物学的な事実なんだから理由になってないよな??」と子供ながらに違和感を感じていた。
関連記事:生まれてこなければ良かった その2 反出生主義 
「精子がたくさんいても受精に至るのは一匹だけ」というのはロマンティックでも奇跡的でもなんでもないただの事実だ。

配偶子の大きさ

進化心理学や進化生物学の本だと、だいたい一章を使って男女の性差について述べている。
中でもドーキンスの『利己的な遺伝子』の説明は身も蓋もなくて分かりやすい。
利己的な遺伝子 <増補新装版> [単行本]
生物は精子や卵子のような配偶子を減数分裂で作る。
進化の歴史の中で、配偶子の形状については2つの戦略が生き残った。
エネルギーを費やして大きな配偶子を作る戦略と、自分は小型の配偶子を大量に作り別の個体が作った大きな配偶子と結合させる戦略だ。
後者の寄生的な戦略を取った個体の末裔がオスということになる。
メスは自分の配偶子である卵子に多大なエネルギーを投資しているので、生まれた子供と自分をオスに守らせるよう行動する。
反対にオスは、多くのメスと交尾して多くの子孫を残すのが遺伝子のビークルとしての最適戦略だ。
ただし、オスは子供が本当に自分の子供なのか(DNA検査に依らない限り)通常は確信できない。
寄生的な配偶子を持った代償として、自分以外のオスの子供を育てさせられるという最悪のシナリオが起こりうるようになった。
子供が本当に自分の子供か悩む父親の姿はフィクションでもリアルでも相応に見られるが、これは究極的には配偶子の形状の相違から生まれる。
いずれにせよ、精子と卵子の相違はロマンティックでもなんでもない戦略上の優位性により存在するのだ。

精子は本当に競っているか

精子観察キットを購入して自分の精子を見たという人がこんなことを言っていた。
「俺の精子あんまりやる気が無いみたいなんだ。半分くらいしか動いてないんだよなぁ・・・。」
これは多分彼の精子だけの問題ではないだろう。
WHO(世界保健機関)が精液検査ラボマニュアルというものを定めている。
同マニュアルでは精子検査で見るべき項目とその基準値が示されており、主要な基準をクリアすれば正常精液ということになる。
その中に、運動精子50%以上、前進運動精子25%以上という検査項目がある。
簡単に言うと、前者は『早く動いている精子とゆっくり動いている精子の合計が50%』という基準で、後者は『早く動いている精子が25%以上』という基準だ。
リンク:日本産科婦人科学会の会報誌
早く動いてる精子が4分の1あれば正常というのは一般的な感覚より少ないのではないだろうか。
残りの4分の3くらいは最初からレースに参加していないのだ。
なんと懸命なことだろう。
生まれる前から生きるつらさを知っていてレースから降りたのではないかという想像をしてしまう。
 


そんなわけで、「生まれてきた人間は数億匹の精子の中でレースに勝った選ばれた存在だ」というようなレトリックは大変に疑わしい。

余談になるが、進化心理学の記事で挙げた明治大学の石川幹人教授の本に、精子の量についての面白い話があった。
生きづらさはどこから来るか―進化心理学で考える (ちくまプリマー新書) [新書] 
関連記事:『生きるのがつらい』療養論4 僕たちは種としても個としてもズレている
霊長類の「体のサイズ」に対する「睾丸の大きさ」と「ペニスの長さ」の比率を比較すると興味深い傾向が見て取れる。
チンパンジーの睾丸は体に比してとても大きい。
彼らは乱婚をするので大量に精子を作る個体が子孫を残しやすいのだ。
ゴリラはムキムキの屈強な体躯をしているが、その割に睾丸とペニスの大きさは控えめだ。
彼等は1頭の雄が複数の雌を引き連れたハーレムを作る。
ゆえに性器の大きさよりも雄の間の闘争で勝つための強靭な肉体が必要なのだという。
ちなみにヒトは体の大きさに対するペニスのサイズの比率が他の霊長類よりもダントツで大きいそうだ。
オチは是非本で読んでみてください(石川先生の考察がちょっと書いてあるだけですが)。 


 

『長距離走者の孤独』反抗して不利益になって、それでも良い

タイトル:長距離走者の孤独
作者:アラン・シリトー(訳者:河野一郎、丸山才一)
出版社:新潮文庫

戦後の1950年台から70年台にかけて活躍した英国の作家、アラン・シリトーの著作。

非行少年のスミスはパン屋に忍び込み金を盗み、感化院(少年院の古い言い方)に収容される。
スミスはそこでクロスカントリーレースの選手として練習を積み、大会に出ることになる。
しかしスミスは反抗することを止めない。

労働者の家庭に生まれたシリトーは、14歳で学校を出てからすぐに働き始めた。
工場労働者を経て空軍に仕官するものの、肺結核によりサナトリウムに入ることになる。
療養期間中に多くの本を読んだことが転機となり小説を書き始めたという。
同時代や現代の一般的な作家像からすると異端な経歴かもしれない。
実際に彼の著作は、当時の英国の労働者階級の人間を主人公にしたものが多い。
初めてシリトーの名前を知ったのは、沢木耕太郎の著作だった。
シリトーの著書である「土曜の夜と日曜の朝」を引き合いに出して、労働者にとっての土曜の夜の特別さに言及していた。
一週間で一番素敵なのが土曜の夜なのだ。

◯走ることに関して

スミスが練習しているクロスカントリーレースは、野山を走る競技だ。
クロスカントリーという言葉はスキー以外ではあまり使われなくなっているが、なるほど、クロスカントリー・ランがあってもおかしくない。
冒頭、スミスが冬の朝にランの練習に出るところから物語は始まる。
スミスは言う「分かってもらえるだろうか。俺がこんな寒空の下早朝から走るのは、この世で最初で最後の人間みたいな気持ちを味わいたいからなんだ。」と。

◯反抗することについて

スミスは、明らかに自分にとって不利益が待っているとわかっていても、反抗することを止めなかった。
それも、普段は従順なふりをして、ここ一番の大舞台でそれを実行した。
「見せてやるさ。誠実とはどういうことか。」
力なきものの一振りは無力だ。
だが、振り下ろすことが存在の証明になる。
そんなことを考えた。

◯「漁船の絵」について

新潮文庫版の本書には、表題作を含めて8篇の短編が収録されている。
そのうちの一遍に「漁船の絵」という作品があった。
別れた一組の夫婦。
郵便配達をしながら生活する男のもとに、10年ぶりにかつての妻が現れる。

シリトーについて持っていた前知識に似つかわしくない作品だったので、不意を突かれたのも一因かもしれない。
そのロマンティックと静かな情熱に、久方ぶりに小説を読んで胸が切なくなった。
 

長距離走者の孤独 (新潮文庫)
アラン シリトー
新潮社
1973-09-03


テレビを見ないのは今に始まったことではなくて

『テレビは強制的に貴重な時間を奪う。貴重というのは、その時間に素晴らしいことが出来るのに、というのではない。退屈で不安な時を奪うからこそ、テレビは敵なのだ。不安で退屈だから、人は考え何かを作ろうとする。』

沢木耕太郎氏の若き日のノンフィクションに出てくる言葉だ。
元売春婦を対象とした養護施設に関するルポルタージュ(「棄てられた女たちのユートピア」「人の砂漠」に収録※1 )で、養護施設の発起人であり運営者であるラディカルな牧師が語る。

足元の10年くらいのトレンドだろうか。
情報媒体の多様化とコンテンツの低質化を背景に、テレビ離れが加速している。
それゆえ、テレビの話についていけず、「テレビはWBSと深夜アニメくらいしか見ないから」と言うと、「最近そういう人多いよね」という返事が返ってくる。
その評価には異論がある。
私がテレビを見ないのはここ10年のトレンドではなく、昔からなのだ。
わざわざ話の流れを折ってまで否定することはしていないけれど。

小中学生の時分に、友人達が連続ドラマやバラエティの話をするようになっても、私は歌番組ぐらいしか見ていなかった。
大学生になると、女子アナの話がよく出てくるようになるが、私は誰が誰なのか良く分からなかった。※2
就職活動の時期になると、多くの同級生がテレビ、新聞、出版、広告代理店を受験していたが、私は受けなかった。
文章を書くのが好きで経済にも興味があったので日経新聞だけ受けた。

自分なりに思うところは2つある。
1つは、決まった時間にテレビの前にいないといけない点が不便であるということ。
Twitterのまとめで見たのだが、ある教員がテレビを見ない理由を生徒に聞いたところ「だって動画が途中から始まりますやん」という回答が返ってきたとのこと。
なるほどと思った。
コンテンツへのオンデマンドのアクセスという点では、テレビはYoutubeはおろか新聞よりも劣っている。
私もWBSと深夜アニメもリアルタイムではまず見ない。
HDDに録画して平日の炊事の際に見ている。

2点目は、製作者や出演者の内輪のネタで盛り上がるようなプログラムに上手く溶け込めないという点がある。
昨今のバラエティが芸人が内輪で盛り上がっていてつまらないという批判は実際によく聞く。
内輪ネタがつまらなく感じるのは、内輪ネタに溶け込むにはその前提についての知識が必要で、それは出演者やコンテンツを継続してフォローしている人にしか分からないからだ。
私が感じた例を挙げると、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」で、山崎邦正モリマンモリ夫が戦う企画があった。
ゴボウしばき合い対決アツアツあんかけ対決など、非常に馬鹿らしく面白いコンテンツだった。
だが、企画が回を重ねると、冒頭にココリコ遠藤がエールを送るという様式が確立されていき、本編の前の短くない時間がそれに費やされるようになった。
出演者も観客も爆笑しているのだが、私は笑いどころが分からなかった。※3

※1.この「人の砂漠」は、単行本の発刊が昭和52年と実に40年近く前の作品集だが、現代でも色あせた印象は受けない。
ノンフィクションというより現代のおとぎ話のような様相のエピソードが多いからであろうか。
単行本でも手に入るし、収録作の多くは文藝春秋刊の沢木耕太郎ノンフィクション第三集「時の廃墟」にも収められている。
※2.とはいえ、滝川クリステルさんと大江真理子さんは大好きでした。
※3.ちなみに、ゴボウは繊維質だから木で叩かれるのと同じくらい痛いらしい。無知の痛みはどのくらいだ。


 
プロフィール

執筆者:マイナスニキ

30代会社員。
会社と業務は何回か変わったが、金融業界で10年ぐらい働いている。
会社勤めが好きじゃなく30歳くらいの時からアルコール依存気味になる。ここ数年は断酒とSLIPの繰り返しでうつ休職もしていた。
一人で出来る生業を見つけて会社に勤めないで生きることが目標。
好きな作家は太宰治と沢木耕太郎。

記事検索
注意事項と免責事項

※当サイトはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

※当サイトでは資産運用、法律、税務などについて運営者の認識や見解を述べることがあります。記事の作成にあたっては専門書や信用のできる情報源に基づいた正確な記載を目指していますが、当サイトはその正確性を一切保証しません。実際の取引や実務上の判断にあたっては、専門家に相談のうえ、自己責任で行ってください。