帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

タグ:人間不信

知らない言葉であっても既知の情報から意味を類推できる能力は、人間の持つ優れた能力の一つだ。
だが、類推は時に誤解を生み、その誤解が修正されること無く、間違った情報として認識されてしまうことがある。
「情けは人のためならず」が情けをかけるとその人のためにならない(だから人には厳しくせよ)という意味だと誤解されたり、「気のおけない人」は気を許してはならない油断ならない人物のことだと誤解されたりする。
アダルト・チルドレンもそのような誤解を受ける機会が多い言葉の一つだと思う。
私も正確な意味を知るまでは、この言葉は「我儘でこらえ性のない子供っぽい大人」を意味すると思っていた。
事実は全く異なる。
アダルト・チルドレンという言葉はもともとアルコール依存症治療の場で生まれた言葉だ。
アルコール依存症家庭に生まれた子供は、大人になってから親のように依存症になったり、依存症のパートナーを持つようになる事例が多いという。
アダルト・チルドレンは正確にはアダルト・チルドレン・オブ・アルコホリクス(Adult Children of Alcoholics)、すなわち「アルコール依存症の親を持った子供が成人した人」という意味だ。
現在では、アルコール依存症に限らず、コミュニケーションの不足やルールの強制が顕著な家庭(機能不全家庭)で育った人を指すようになった。
つまりアダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー(Adult Children of Disfunctional Family)である。
アダルト・チャイルドは「自分の欲求がよくわからない」「ありのままの自分で良いと思えない」「自分が大切な存在だと思えない」といった自己の喪失や自己否定感を持ちやすいという。

僕は機能不全家庭の子供だった

私の生家が結構機能不全な家庭であったことは以前に書いた。
強権的で癇癪持ちの父と妄想癖で嫉妬深い祖母に気を使う必要があり、私は家の中に諍いが起きないよう気をもんで過ごした(あるいは今でも気をもんでいるのだと思う)。
そして、長子の私は、自分の誕生が母をそのような家庭に縛り付け笑顔を奪った原因なのではないかと心の奥で考えていた。
全てを生育環境に帰責するのはフェアではないが、「人を信じられない」「弱音を吐けない」「頼みごとが苦手」「他人の顔色をうかがってしまう」「音に敏感」といった私の形質は生育環境に依る部分が小さくないと思う。
こちらのサイトにあるように、同じように感じる機能不全家庭の出身者も多い。
リンク:会話のネタ速報 日常的な両親の喧嘩が子供に与える影響とは? http://muravillage.com/ryousinkenka-kodomo-1760

自分の過去と向き合うために

私は、自分の生き難さの原因が生育環境にあり、同じような理由で苦しんでいる人がいると分かっただけで、ずいぶんと救われた気がする。
とはいえ、一般論を知るだけでは不十分だ。
過去は変えることが出来ないし、気の持ち方で今から別人になれると考えるには、私たちはこの問題と長く付き合いすぎている。
切り裂かれるようにつらくても、自分の過去と向き合う必要があるのではないか。
結局私は、以下の本のワークを自分でやってみた。
アダルト・チャイルドが自分と向きあう本(編集:アスク・ヒューマン・ケア研修相談センター、出版:アスク・ヒューマン・ケア)
アダルト・チャイルドが自分と向きあう本 [単行本]
(発行元はアルコール依存症に関する情報提供等を行うNPOを母体とした出版社)

本書では、以下のようなワークが紹介されている。
・原家族にあった問題と無言のルールを明らかにする
・子供の頃の自分にとって不安だったことを振り返りそれを癒やす
・子供の頃の自分の家庭内における役割を振り返る
・自分が原家族で獲得したルールを新しいルールに置き換える
・幼少期から思春期の癒やされていない悲しみを発見し誰かと分かち合う
率直に言って、一つ一つがとても重く感じた
140ページにも満たない本だが、余白に自分の回答を書き込みながら読んだため、読了後は疲れ切っていた(途中で吐き気もした)。
本の中でも書かれているが、不安定な状況では避けたほうがいいし、可能なら信頼できる援助者と共にやるべきだ。

だが報酬は十分にあった。
例えば以下のことは、実際に言語にして初めてわかった。
・強制されたルールについて
私の生家の共依存のルールは「問題について話すな」「従え(従うまで不機嫌になる)」というものだった。
だから、大人になっても仕事でこのような場面に出くわすと狼狽していた
・自分の役割
私は家族の中の自分の役割を「しっかりした子(ヒーロー)」で「世話焼き(ケア・テイカー)」だと思っていたのだが、実際は「おとなしくて面倒をかけない子(ロスト・チャイルド)」だったのかもしれない。
問題を起こさないことが第一であり、自分が主張すると周りが不機嫌になると思っていたのだ。
そして、この主張しなさ、勇気のなさによる不作為が、結果として祖母の妄執に加担し母に手間や苦労をかけたことがある。
私の加害意識の根っこを見つけた気がした。
・承認と報酬
私はあまり褒められたことがなく、家族に信頼されていないと感じていた。
たぶん、運動神経が鈍く転んで傷を作ることが多く、いじめられたこともあるため、家族の中で私はずっと「弱い保護すべき対象」だとみなされていたのだろう。
そして、勉強だけは昔から得意だったが、それで褒められたことは無かった。
それゆえ、大人になっても他者からの承認と報酬を過度に求める傾向にあったように思う。
仕事が順調なうちは、家庭では不十分だった承認も報酬も十分に受け取ることが出来たのだ。
だが、これは共依存の場所を変えただけだ。

鎖を解き放つ

「過去の自分がほしかったものは、今の親からもらう必要はないのです。仲間や、そして何よりあなた自身が、それを与えてあげることができます。」
上記の本の終盤に書かれていた言葉だ。
自分を縛る鎖を見つけたら、そこから解き放たれよう。
親との間に境界線を引いて、自分の欲求を満たしてあげよう。 
そのように考えることで、しがらみから一つ解放された気がした。
 
困難かもしれないが、生きているうちに家族を愛せるようになりたいと、少しだけ考えるようになった。
うまく出来るか分からないが、私の家庭の悪役達もそれぞれの生き難さがあり、それゆえ選択肢が少なかった人たちなのだと考えてみようかと思った。
そのためには、やはり自分が鎖から解き放たれなくてはいけない。

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関連記事:「人を信じられない病-信頼障害としてのアディクション」の書評
依存症の背景に生育環境に起因する生き難さがあり、人間不信ゆえにモノに頼る傾向があるのではないかと指摘する本を紹介した記事です。


記事で参照している本です。ワークは結構キツイので、文中の注意(うつや依存症から回復途上にある時は避ける、援助者とやる)に従ってやった方がいいです。

古い本ですが、アダルト・チャイルドの実例(著者の臨床例をもとにしたフィクション)が多く紹介されており、回復に向けたステップも示されています。アルコール依存に的を絞っていますが、他の機能不全についても当てはまる部分は多いと思います。

関連記事で紹介している本です。生育環境→人間不信→物への依存という構図は説得力がありました。ただ、回復のために取るべき方法はあまり書かれていないです。

実家があまり好きじゃないけど、盆と正月は一応顔を出しているという人も結構いると思う。
正月帰省すると言うと同僚などからは「ゆっくりして来てね」と言われることが多いがとんでもない。
一人で過ごすほうがよっぽどゆっくりできる。
ここで顔を見せておくと一年の残りの日々は生家から距離を置いて過ごせるので、ただただそのために帰省している。

滞在時間が短くても顔を見せてる印象を作れること

金融業界だと会社の休日は基本的にカレンダー通りだ。
事業会社に勤務する友人に言うと驚かれることもあるが、盆休みは無いし土日に被らなければ年末は12月30日まで仕事だ。
証券取引所も開いているし、日銀ネットも稼働している。
(業界としては繁忙な時期ではないので有休を取得する人もそれなりにいる。それはまた別の話。)
盆は近くの土日だけ戻る。正月は31日の午後に着いて2日の夜には発つ。
こうすると、滞在時間は実は少なくて済むが、その割にちゃんと帰省しているような印象を作れる。
「たまには帰ってこい」というような対処に困る連絡を受ける可能性を減らすことができるだろう。

厄介ごとが起きてないか確認するため

病気や犯罪や人間関係の厄介ごとが起こっていないか半年に一回くらいは確認しておいたほうが良いのではないかと考えている。
詐欺師が入り込んでいるかもしれないし、宗教にはまっている人間がいるかもしれないし、壺を買わされているかもしれない。
大きなトラブルになると年に2回帰省するよりももっとしんどいので、定期的な監視をしておいた方が安心なのだ。
捨てるのが難しいので定期的にメンテナンスするような感覚だ。 
認知の歪みもあるが、私は自分の家族は自分に対して厄介ごとを起こす気を許してはいけない存在として見ている。

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従って、盆と年末年始の帰省は費用対効果に優れリスク管理上も意義のある行為だと思います。
別に楽しくなくても上記の理由からとりあえず顔を出してくるという人を当ブログは応援します。

本年はお世話になりました。
良いお年をお迎えください。

 

先日、土屋太鳳の読み方がわからなかったのでWebで検索した。
ついでにWikipediaの彼女の記事を一通り読んだのだが、尊敬する人「家族」という情報があった。
芸能人もなかなか大変だ。
大人になってまで「尊敬する人」などという無遠慮な質問に答えなくてはならないのだから。

日本で生きていると、20代の前半くらいまでは尊敬する人を聞かれることが多少あると思う。
小学生の作文の題材としてもポピュラーだし、大学のサークルや会社の新入社員紹介のプロフィールに書かされることもあるだろう。
それ以降は、あまり聞かれない気がする。
30代の人間が輝かしい業績を挙げたときは今後の展望と絡めてインタビューで聞かれるかもしれない。


「尊敬する人」はいません

昔から「尊敬する人」を聞かれると困った
安全な回答は「家族」なのだと思うが、私は自分の家族が苦手だったので嘘でもそんなことは言いたくなかった
仕方なく、伝記で読んだ過去の偉人の名前を挙げることが多かった。

ざっくりと分類すると、尊敬の対象になりやすい人は、「能力が優れている」「人格が優れている」「優劣はともかく自分が好ましいと思う特徴を持っている」のいずれかではないかと思う。
私もこれまで、有能な人物と仕事や勉強をしたことがあるし、人格者に助けられたこともあるし、面白い考え方や生き方をしている人間に刺激を受けたこともある。
だが、彼・彼女らを「尊敬」しているかというと、どこか違う気がするのだ。

「尊敬」と検索窓に打ち込むと、Google先生が以下の定義を教えてくれる。
そんけい
【尊敬】
《名・ス他》他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついて行きたいような気持になること。うやまうこと。
おそらく私が他人を尊敬していると言い難いのは、後段の「頭を下げたくなる」と「ついて行きたいような気持ちになる」にある。
人間不信ゆえの認知の歪みなのだが、私は、相手がどんなに好人物であっても、自分に危害を加えるのではないかと心のどこか怯えているのだ。
それゆえ、人に頭を下げるのも指示に従うのも苦手だ。
頭を下げればそれにつけ込み自分に害を成すと考えるし、他人に心酔すれば体よく道具として使役される羽目になると考えている。
論理を伴わない歪んだ感覚なのだが、分かっていてもなかな克服できない。

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「尊敬」の話ではないが、人間嫌いとして知られる江戸川乱歩には以下のような逸話が残っている。
雑誌『新青年』のアンケート「あなたが生まれ替わったら」への乱歩の答え
「たとえ、どんなすばらしいものにでも二度とこの世に生まれ替わって来るのはごめんです。」

今度聞かれる機会があれば、次のように答えるのはどうだろう。
「たとえ、どんなに素晴らしい人でも、他人を尊敬したことはありません。」


 

タイトル:人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション
著者:小林桜児
出版社:日本評論社

依存症(アディクション)の背景には人間不信があるという仮説に立って、依存症者に見られる傾向や目指すべき方向が述べられている。
著者は、慶應義塾大学文学部卒業後、信州大学医学部を卒業した現役の精神科医だ。
現在は、依存症治療の専門医として臨床にあたっており、本書でも臨床例の紹介が豊富に出てくる。

筆者によれば、現代の精神医学では、依存症は遺伝的要因脳障害によって説明されるとのことだ。
アディクションを発現しやすい遺伝子の組み合わせを持った人間が、実際に依存物質を使う中で脳に対する害が進行し、やめたくてもやめられない状態になる、という理屈だ。
だがこの論理は、依存症者が依存行動を10年以上絶つことができたが、その後に再び依存症になるような場合の説明として弱い。
本書では上記とは異なるアプローチとして、依存症者の抱える「生き難さ」に着目する。
そして、「人間を信頼できないからモノに頼る」という論理が依存症の背後に見られることを指摘する。
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昔から人に頼み事をするのが苦手だった。
特に仕事に関する場合において顕著だ。
人間不信と自分が働くのが嫌だからというのが理由だと思う。
(人間不信については人間失格の話で書いたのでよろしければそちらもどうぞ。)

人間不信だと頼みごとがしにくい

相手に頼み事をするのを、借りを作る行為だと考えている。
借りを作ると、次の相手の頼みごとを断りにくくなる。
自分が弱い立場になったような気がする。
他人は自分より強い立場にある時は、自分に対して理不尽な要求をすると考えている。
実際はそんなことはそう頻繁にないのだが、人間不信ゆえに認知の歪みを拭えない。

自分が働くのが嫌だと頼みごとがしにくい

労働はとても嫌な行為だと思っているので、他人にそれをさせるのに気が引ける。
メンタルが弱っているときや、多忙を極めているときは、自分に対して仕事を振ってくる人間は全員死ねば良いと思う。
何度か口に出して言ったこともある。
これもまた認知の歪みなのだと思う。
本当は、世の中の多くの人間は自分ほどには労働を嫌っていない。
仕事を愛している人間もそれなりにいる。

相手が淡々と引き受けても、嫌な顔をして引き受けても、仕事を振った私に対して復讐するのではないかと恐れている。
労働をさせた自分に対して憎悪をつのらせ、酷い報復をするのではないかと恐れている。

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ここまで書いてしまうと結構病的なのだが、包み隠さず言うとこのような思考ゆえに頼みごとが苦手なのだ。
実際は人に頼られるとそれはそれで嬉しいものなので、あまり気に病まない方が良いのだろうけれど。

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