帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

人間嫌い

生きるために有能な人間に擬態していた

白状すると、僕は就職活動の頃から、現代社会における『有能な』人間に擬態してきた。
職業的な成功への渇望もあることにはあったが、それ以上に、世間体と条件が良い仕事について、他人に見下されず、家族に頼らないで生きたいという願望がのほうが大きかった。
エスタブリッシュメントな仕事につけるように、バイタリティと協調性と主体性と従順さというごちゃごちゃな能力があるかのようにふるまった。
まるで、毒を持たないアブが外敵を欺くために、ハチにそっくりな体色を手に入れたように。

擬態しないと居場所がない

現代社会では「人間嫌い」「他人といると疲れる」「人と話したくない」「他人が怖い」「人に指図されたくない」という性根の人間を迎え入れる組織はなかなかない。
(「現代社会」と書いたが、たぶん古今東西の人間社会にあてはまると思う。)
少なくともそれを口に出す人間に門戸が開かれることはない。
私も、もちろんそんなことは口に出さないで、擬態してきた。
一応、積極的な嘘はつかなかった。
「ガッツがあります」「人と一緒にいるのが好きです」というようなことを自分が言ったら白々しいことは分かっていたし、なにより嘘でもそんなことは言いたくなかった。
その代わりに、人間嫌いがバレそうな発言をすることを避け、嘘にならないようなパラフレーズを用いた。
「相手の気持ちを考えるようにしています」(他人が怖いから顔色を伺うのだ。恐怖を協調性に擬制する。)
「交友関係が広いというよりは、気のあった友人と突っ込んだ話をする方ですね」(人付き合いがあまり良くないことのパラフレーズ。交友関係が広い人でも突っ込んだ話は気のあった人としかしないだろう。こんな言葉でも真顔でハキハキ答えれば真面目で誠実な印象を与えられる。)

以前取り上げた『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』(イルセ・サン、ディスカヴァー・トゥエンティワン)というHSPに関する本にも書いてあったが、この世界は基本的に鈍感でタフでエネルギッシュな人間が作っている。
関連記事:繊細なシミュレーション装置は悲しい物語を嫌う
また、学校では幼いうちから集団行動や人間関係や友情ごっこを押し付ける。
敏感で一人でいるのが好きな人間は、だいたい自分を欺いて人格改造するか、社会を欺いて擬態して生きているのではないだろうか。
(まぁ、家族に頼ることをいとわずに噛じれるスネがある人は引きこもる事もできるし、冒険をいとわないのであれば創作やデイトレなら一人で食い扶持を確保できる可能性もある。)

ロクデナシになろう

僕はずっと擬態しているうちに、自分がハチになったと勘違いしていたのかもしれない。
うつで動けなくなって休んで、自分は人間嫌いだし人と話すのも大嫌いだし、一人でいるのが一番楽しいということがよくわかった。
だから最近では『役立たずになってやろう』とよく考える。
(先日のゾンビの話で言うところの「死体をゾンビにされないように切り刻む」方法。)
関連記事:ゾンビと労働の日々
最近あったなんでもないことだ。
別の部署から照会に来た。
私もいくらか関係しているのだが詳細は把握していないので、主担当でなければ分からないことだった。
以前だったら相手に気を使って(正確には『復讐を恐れて』)、一旦自分が引き取って主担当に聞いて答えようかとか、面倒くさい気の回し方をしていた。
「XXだと思うけど、俺には詳細は分からない。今いないけど◯◯さんが戻ってきたらそっちに聞いてみて。」
こういう突き放した言い方がとっさにできるようになったのは病気の功名かもしれない。

役立たずと罵られて最低と人に言われて
それぐらいがちょうどいい。


鈍感な世界に生きる 敏感な人たち
イルセ・サン
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2016-10-22

デンマークの心理療法士の書いたHSP(Highly Sensitive Person、敏感で感じやすい人)の解説書。
心当たりのある人は読んでみると悩みを客観化出来る思います。

利己的な遺伝子 <増補新装版>
リチャード・ドーキンス
紀伊國屋書店
2006-05-01

アブの擬態の話と直接は関係ないんですが、ハチやアリみたいな社会性の昆虫は凄く面白いなと思いました。



ずっとティーン・エイジャー向けの曲だと思ってましたが、労働や人間に疲れた状態で聞くととても響きました。



『生きるのがつらい』療養論3 資本論と人間嫌いの葛藤

療養中に、資本論の解説書を読んだ。

資本主義の解説書を求めて

私はこれまで、資本主義というものをあまり疑わなかった。
ニュースの意味を理解するようになる前に、ベルリンの壁もソビエト連邦も崩壊していた。
私が生まれ育った時代には、共産主義はすでに枯れた思想だったのだ。
政治思想を学ぶ中で、能力や生産に応じてではなく必要に応じて分配を受けるという共産主義の理念に共感はしたが、それは人間には実現不可能な夢の世界のように思われた。
市場を通した分配がうまくいくとは限らないが、私はそれ以上にオーソリティーによる分配のほうが信用できないと思う。 
ただ、共産主義が資本主義の代替として実現し得ないとしても、私が嫌悪する過剰な労働を生む装置(24時間営業やワンオペや残業ありきの社風)が資本主義の産物だということも事実だ。
共産主義の入門書ではなく、文字通り資本主義の解説書として資本論を学びたいと思った。

ちなみに、私が初めて資本論に言及する文章を読んだのは、『ナニワ金融道』で知られる漫画家の青木雄二のエッセイだった。
なんでも、青木は漫画家になる前に自分が作ったデザイン会社を倒産させてしまった経験があり、仕事がない時期に資本論を読んだことがきっかけでマルクスに傾倒するようになったという。
幸か不幸か私も当時の青木とちょっと似た状態だ。
資本論の勉強をするにはちょうどよいタイミングだろう。
とはいえ、原著を読むのは骨が折れそうなので、薄い解説書と厚い解説書を読むことにした。
カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) [新書] (薄い解説書)
〈資本論〉入門 [単行本] (厚い解説書)

資本論は結構思慮深かった

読んでいると、想像していた以上に思慮深く現代的な記述が多く驚いた。
例えば、労働者に対して猛々しく団結を説く共産党宣言とは異なり、資本論では「資本家」と「労働者」を個々の人格としてではなく、あくまで抽象的な役割として論じている。 
現代では、証券口座が市民にもく普及しており、公的年金や保険を通した間接的な保有も合わせれば国民の多くが「株主」としての顔を持つ。
このように、資本が一定程度民主化され「労働者」が「資本家」を兼ねるようになった現代においても、「資本家」と「労働者」を社会構造における役割として考えるのであれば一般性は失われない。

資本論と働くのが嫌いでケチな私

特に印象的だったのは、資本論における商品論と貨幣論が、私の労働嫌悪ゆえの思考や貨幣観と整合的だったことだ。
当サイトにもしょっちゅう書いているのだが、私は働くのが嫌になってからお金が使えなくなったし、お金を使わないと生命が維持できない人間は呪われた存在だと考えている。
だが、そのような考えとは裏腹に、私はお金を嫌悪するのではなく、自分に自由を与えてくれるものとして心の底から欲している。

資本論と照らして見てみよう。
1.労働力商品
生産手段を持たない労働者である私は、労働力以外に売る物がない。
持たざる者として「労働力を売る自由」があるのみだ。
2.労働力の価値
そして、労働力の値段は労働の再生産にかかる費用から決まる
明日からまた働けるだけの状態を維持するための費用が労働力の対価として支払われるのだ。
それゆえ、妻子がいない私のような人間でも、衣食住を満たしたうえで手元に残る金額は多くない。
賃労働に身をおく限りは、働けなくなるまでそれから解放されないのだ。
また、私は常日頃から、労働力を売ることで労働者に発生する出費はばかにならないと考えていた。
例を挙げると、以下のような具合だ。
・自分で食事を作る時間を奪われるために外食に高い費用を払わねばならない。
・仕事のストレスの発散のために娯楽や遊行にお金を使う誘惑にかられる。
・休日が他の労働者と集中するので、レジャーなどで混雑する時期に高額な費用を払わねばならない。
・古本屋を回ったりオークションを調べる時間が無いため、中古品を安く手に入れる機会が限られる。
高ストレスで拘束時間が長い仕事ほど給料が高いのは、労働力の再生産コストが高いからだという理解も成り立つ。
賃金が労働力の再生産のためのコスト分だけ支払われるのであれば、衣食住や娯楽を削って自己を再生産する費用を下げることでしか僕たちは自分の手元に金を残せないことになる。
そのように考えると、生命の維持はやはり呪いだ。 
3.貨幣のフェティシズム
貨幣から商品への交換は「一般」から「特別」への交換である。
そして、他の多数の商品と交換可能な貨幣はいつしか特殊な価値を持つようになる。
特別な財だとみなされるようになった貨幣は、単なる流通の便宜のための道具ではなく、人間の行動様態に影響を及ぼすようになる(物象の人格化)。
貨幣を際限なく貯蔵する欲求を抱かせるだけでなく、貨幣を通じて実現される自由、平等、所有が人間の普遍的な権利であるというイデオロギーを形成させる。
貨幣は私の中では、お金があればコミュニケーションを削減できる、お金があれば働かなくても良い、お金を稼いでいるうちは家族にも文句は言われない、という思考として人格化した。
他者からの自由のために貨幣を求めてやまない私は、賃労働を嫌いながらも貨幣のフェティシズムに支配されている。

(その他にも「分業は労働者を疎外する」とか「生産力の向上は過剰な労働力を生むから労働者に不利になる」といったことは覚えておくと健全な他者転嫁をする上で有用だと思う。)

資本論と人間嫌いな私

このように、資本論は結構私の悩みにしっくり来る思想だったのだが、引っかかる点も相応にあった。
一番疑問だったのは、マルクスは資本主義以前の家族や共同体のような人間関係を美化しすぎているのではないかということだ。
例えば家族について言えば、共産党宣言に以下の文言が出てくる。
”ブルジョア階級は、家族関係からその感動的な感傷のヴェールを取り去って、それを純粋な金銭関係に変えてしまった。”
とてもじゃないが、私は家族がそんなにロマンティックなものだとは思えない。
また、濃密な地縁関係の中で生きるよりも隣人を気にせず暮らせる現代の都市生活の方が煩わしくないし、徒弟制度よりも本とネットで勉強する方が気が楽だと思う。
私は地縁・血縁の共同体の一員として生きたり、革命のために他の労働者と団結するよりも、貨幣で結ばれた関係の方が気楽なのだ。

階級闘争よりも身近な感情

私は労働と貨幣から生じる生き難さを持っている一方で、貨幣から離れて濃密な人間関係の中で生きていくこともしたくない。
袋小路のような資本の迷宮の中で、なんとなく救いがあるように感じたのは、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉だった。
シュンペーターは経済学者としてのマルクスの功績を高く評価しており、著書の『資本主義、社会主義、民主主義』の最初の章を社会主義、すなわちマルクスの経済理論の考察に当てている。
その中で彼は、
「マルクスは労働者の本音を階級意識に基づく社会発展という啓示にすり替えた。実際には、多くの労働者はプチブルジョアになりたいと考えている。」
という、身も蓋も無いがその通りのことを言っている。

幸福は比較の中で感じられることが多い。
他者との比較によってもたらされることもあるし、過去との比較(すなわち変化)の中で感じられることもある。
労働者がプチブルジョワになると他者との比較でも過去の自分との比較でも幸福を感じられる。
疲れることが多いけれど「能力を発揮して対価を得て、過去の自分や他者よりも豊かになる」ことには、やはり抗いがたい魅力があるのだ。

資産家の家に生まれて労働をしなくてもいい人間がいることは不公平だと思うし、そういう人はとてもうらやましい。
働く時間と場所に自分の自由が無いことや、社会や会社のつまらないルールに従わなければならないことは辟易する。
そのような、生まれながらの富の偏在と画一的な賃労働を生む資本主義には不満がある。
だが、全ての人間が寝て暮らせる時代は無かったし、他者との距離は資本主義以前の社会の方が近かった。
だから、もうしばらく降りないで働いてみようと思った。
一応、資本主義は人間嫌いな私にはそれなりにフィットしているような気がするから。

 
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私が今回読んだ「薄い解説書」。
『大学四年間の哲学が10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)で推薦図書として挙げられていたので最初に読んだのだが、要点がわかりやすくまとまっているとても良い本だった。
資本論の概要の説明が100ページくらいでされている恐るべき本(残りの150頁ではマルクスの生涯と最近のマルクス研究について解説している。)。
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「厚い解説書」はこちら。
著者のハーヴェイはニューヨーク市立大学で経済地理学とマルクスを研究しており、米国中で資本論の講義をしている。
本書は資本論を読み通すためのガイドとして書かれたもので、資本論の構成に沿って適宜原文を引用しつつ、現代的な解釈も絡めた説明をしている。
読みにくい本では無いのだが、初めの数章は原著がそもそも難解なので、200ページ位までは全部理解しようとして読まないほうが良いと思う。 
 

相手の属性を攻撃すること

議論や言い争いにおいて、テーマを離れて相手の「属性」を攻撃しようとする人がいる。
どちらかと言うと、リアルよりも掲示板やWebのコメント欄のような匿名のやり取りで多い気がする。
感情的になってそのような言動に及ぶ場合もあるが、発言者を貶めることで発言の信頼性を下げることを目的として意識的になされる場合もあるだろう。
選挙や国会の報道で、後者の目的での発言を嫌というほど見かける。
フィクションの裁判シーンでも、証人の適格性を貶めることで証拠能力を否定しようとするのは常套手段だ(実務ではどうなんだろう)。

こういった闘争の相手への直接攻撃は、ざっくりと2つの類型に分けられると考えている。

  • 社会的に価値が低いと考えられている、または少数派である点を攻撃する
「そんなんだからいい年して独り者なんだ」
「年下のくせに生意気だ」
「1人が好きなんて寂しい人間だね。友達がいないの?」 
「スマホゲームで有料アイテムを購入するなんてバカだ(この文脈で「課金」というのは誤用だと思う)」 
「そんなものを喜んで食べているなんて舌が貧しい(馬鹿舌子供舌といった類)」
「食事の行儀が悪い(クチャラーや箸の持ち方といった類)」

社会通念や数の論理を背景に、発言者を貶めようとする。
本題ではないが、後ろの2つのように食に関して他者を貶める人は結構いる。
確かに、私も音が気になる質なので他人の咀嚼音は気になって仕方ない。
ただ、箸の持ち方はどうでもいいし、食の嗜好に貴賎は無いと思う。

  • 二者択一の属性を攻撃する
「低学歴は仕事が出来ない/いい大学出てこれかよ」
「男だから/女だから」
「これだから文系は/これだから理系は」
「健常者だから/障害者だから」
これらの属性は、基本的には両方に属することが出来ない(複数の学問に通じていたり、性転換していたりと、二者択一に当てはまらない人ももちろんいる。)。
両者の属性は平行線であるという固定観念や、相対化により発言者の資格を貶めようとする。


いずれの場合も、自分が愛着がある属性を攻撃されると腹が立つことこの上ない。
例えば、自分がポリシーを持っていたり(職務内容)、努力して獲得したり(学歴や資格)、長い間付き合ってきたもの(性別)がそうだ。
「そんなんだからいい年して独り者なんだ」
→俺は人を愛せないから相応の覚悟を持って独身なんだ(モテないのも事実だけどさ)
「そんなものを喜んで食べているなんて舌が貧しい」 
→食事に金を使う方が馬鹿らしい。腹に入れば一緒だ。
「男だから/女だから」
→一部の人間の特徴を全体に当てはめるな。

ただ、自分がその属性の代表者であるかのような気持ちになってやり返すのは避けたほうが良い
応じてしまうとどういうわけかこちらが負けたような雰囲気になるし、何よりも疲れる。
自分のスタイルや属性にあまり肩入れしない方が気楽でいられる。

とはいえ、属性を全て取り払った後の私には何が残るだろう。
玉葱のように芯が残れば良いが、何も無いような気もする。
これは結局「あるがままの自分は愛される価値があるか」という自己評価の問題に回帰するのかもしれない。


 

繊細なシミュレーション装置は悲しい物語を嫌う

昨年の末くらいにデンマークの心理療法士が書いた『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』(著者:イルセ・サン、邦訳:枇谷玲子、出版:ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本を読んだ。
HSP(Highly Sensitive Person、非常に敏感な人)という概念について説明して、HSPの特徴や陥りがちな悩みと対処法について述べられている。
ざっくり分けると、人間の5人に1人がHSPに該当するとのことだ。

冒頭にHSPのチェックテストがあり、60点以上の場合はHSPの可能性が高いとするテスト(-52点~140点でスコアが出る)で、私は73点だった。
設問を幾つか紹介すると、「音や匂いに敏感」「人といると疲れる」「一人でも楽しめる」「誰かが怒っているとそれが自分に向いていなくてもストレスを感じる」等には当てはまったが、「暴力シーンが苦手」等の項目は当てはまらなかった。
(『時計仕掛けのオレンジ』の浮浪者や作家をフィリーするシーンは大好きだ。)
本全体でも、自分に当てはまる内容とそうでないものがあったが、「社会は鈍感でタフな人間の価値観で作られており、繊細さなどが過小評価されている」という指摘には救われた気がした。

考えてみれば、昔から悲しい物語が苦手だった
HSPの気質がある人間としては、登場人物の心を推し量って必要以上に共感してしまうのかもしれない。
悲しい物語の中でも、理不尽に襲いかかる暴力に対して助けが差し伸べられないような話を特に苦手としていた。
例えば
無実の罪で罰せられる
自分や愛するものが被害を受けたが加害者が罰せられない
理由なく悪意の標的になる
といったものは続きを見るのが辛くなってしまう。

橘玲が「心は社会的な動物である人間が群れに適応して子孫を残すためのシミュレーション装置だ」という旨のことを書いていた。
群れに適合して生きるために他人の感情や思考をシミュレートする機構が心だとすると、共感性と繊細さに優れた人間は有利な道具を持っているとも言える。
実際、自分が折衝や調整に長けていると感じたことがあるし、それが評価につながった経験もある。
だが、それとは裏腹に心は疲れていた。
シミュレートした他者の感情や主張に、押しつぶされそうになる
ひたすらに放っておいて欲しいと思うようになるのだ。

『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』では、HSPは生まれもった気質であるということが書かれていた。
ただ、私はこれには結構後天的な要因も作用しているのではないかと思った。
逆説的だが、人間不信や他者への恐れが強い人間ほど、敏感な心を持ち、他者の顔色をうかがうようになるのではないだろうか。
 
 

『孤独の価値』一人が好きなのを引け目に感じなくて良い

タイトル:孤独の価値
著者:森博嗣
出版社:幻冬舎新書

作家の森博嗣氏のエッセイ。
孤独について、著者自身が常々考えていることを述べられている。
私は『すべてがFになる』『スカイクロウラ』も読んだことがない。
ただ、カバーに書かれていた「『孤独』を忌避する考え方は、マスコミや絆を売り物にしたい側の誇張によりもたらされている」という主張に我が意を得たりという思いがして衝動買いしてしまった。
孤独を嫌う人を対象に書かれているので、私のように一人でいるのが好きな人間は「そんなことは分かってるよ」と感じる点も結構あった。
私と同類の方は、「一人でいるのが好きな自分」を肯定するための材料として読んでいくと元気が出ると思う。

ステレオタイプの感動

本書では、映画やドラマといったエンターテイメントが、感動に訴えやすい「家族愛」「仲間との絆」を題材とした作品を作りがちであり、あたかもそれらが絶対的な価値観であるかのように錯覚させていると指摘する。
そして、人類において少数派であったとしても、仲間や家族が人生のトッププライオリティでなくても異常ではないし、家族や仲間がいなくとも、芸術や学問のように人生を捧げるべきものを持っている人間は豊かで自由だと述べる。

考えてみれば、私は「家族は愛さなければならない」「友人が少ないと人間的に劣っている」という刷り込みに多分に惑わされてきた。
小学校でも「道徳」(この科目はいつ見ても意味不明)の授業でこれらの価値観を繰り返し刷り込まれ、行動評価の項目にもなっている。
以前に友人と意気投合したのだが「1年生になったら」の歌は暴力的でグロテスクだ(別にひでが歌ってたからじゃないよ)。
一年生になったら  一年生になったら ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな  富士山の上で おにぎりを
「友人は多いほど良い」「友人と一緒に何かをするのは楽しい」という価値観を押し付ける。
他人といると疲れてしまう人は異常なのだろうか、一人で行動することを好む人間は劣等なのだろうか
この歌を覚えた児童の一部は、後の人生でこのような煩悶に出くわしているのではないか。

人間は無意識に孤独を求めている

本書の終盤で、孤独を忌避する考え方はメディアや経済界が生み出した虚構であると、多くの人がすでに気づいていると述べられている。
結婚しない、または子供を持たないという選択肢をとる人間が増えたのは、社会制度の不備だけが原因ではない。
「社会的な押し付けが無ければ一人でいたい」という人間が、素直にそのような人生を生きるようになったのだ。
田舎から都会への人口流入が止まらないのは、都会では一人暮らしや核家族が許容されるからだ。
高い住居費や子育ての不自由さがあっても、生家からの自由にそれ以上の価値を置くからだ。
そのように述べる。
以前に世帯数の数字を見たときに2世帯同居の崩壊と核家族・単身世帯の増加に言及したが、社会的な強制が無くなれば、イエは自由を求めてどんどん小規模になるのかもしれない。
リンク: 日本の世帯数の30年前との比較と若干の考察 

都市の生活は孤独と自由を与えてくれる。
人々は隣人に無関心でいてくれる。
コミュニケーションを取らずともシステマティックにモノやサービスを提供してくれる店が多い。
宅配便以外の来客はオートロックで拒めばよい。
私もまた、都会のもたらす孤独に大変心地よく漬かっている人間の一人だ。

尊敬している人間なんていない(私は土屋太鳳が読めなかった)

先日、土屋太鳳の読み方がわからなかったのでWebで検索した。
ついでにWikipediaの彼女の記事を一通り読んだのだが、尊敬する人「家族」という情報があった。
芸能人もなかなか大変だ。
大人になってまで「尊敬する人」などという無遠慮な質問に答えなくてはならないのだから。

日本で生きていると、20代の前半くらいまでは尊敬する人を聞かれることが多少あると思う。
小学生の作文の題材としてもポピュラーだし、大学のサークルや会社の新入社員紹介のプロフィールに書かされることもあるだろう。
それ以降は、あまり聞かれない気がする。
30代の人間が輝かしい業績を挙げたときは今後の展望と絡めてインタビューで聞かれるかもしれない。


「尊敬する人」はいません

昔から「尊敬する人」を聞かれると困った
安全な回答は「家族」なのだと思うが、私は自分の家族が苦手だったので嘘でもそんなことは言いたくなかった
仕方なく、伝記で読んだ過去の偉人の名前を挙げることが多かった。

ざっくりと分類すると、尊敬の対象になりやすい人は、「能力が優れている」「人格が優れている」「優劣はともかく自分が好ましいと思う特徴を持っている」のいずれかではないかと思う。
私もこれまで、有能な人物と仕事や勉強をしたことがあるし、人格者に助けられたこともあるし、面白い考え方や生き方をしている人間に刺激を受けたこともある。
だが、彼・彼女らを「尊敬」しているかというと、どこか違う気がするのだ。

「尊敬」と検索窓に打ち込むと、Google先生が以下の定義を教えてくれる。
そんけい
【尊敬】
《名・ス他》他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついて行きたいような気持になること。うやまうこと。
おそらく私が他人を尊敬していると言い難いのは、後段の「頭を下げたくなる」と「ついて行きたいような気持ちになる」にある。
人間不信ゆえの認知の歪みなのだが、私は、相手がどんなに好人物であっても、自分に危害を加えるのではないかと心のどこか怯えているのだ。
それゆえ、人に頭を下げるのも指示に従うのも苦手だ。
頭を下げればそれにつけ込み自分に害を成すと考えるし、他人に心酔すれば体よく道具として使役される羽目になると考えている。
論理を伴わない歪んだ感覚なのだが、分かっていてもなかな克服できない。

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「尊敬」の話ではないが、人間嫌いとして知られる江戸川乱歩には以下のような逸話が残っている。
雑誌『新青年』のアンケート「あなたが生まれ替わったら」への乱歩の答え
「たとえ、どんなすばらしいものにでも二度とこの世に生まれ替わって来るのはごめんです。」

今度聞かれる機会があれば、次のように答えるのはどうだろう。
「たとえ、どんなに素晴らしい人でも、他人を尊敬したことはありません。」


 

自分は有能だが気持ち悪い存在だと感じる

認知療法の本を読むと、「自己評価の低下」はうつ状態の人に典型的な認知の歪みだという。
自分のことを無価値に感じる
自分は生きていてもしょうがない
自分が嫌いだ
そのように考えてしまうという。

どういうわけか、私はあまりこういう感じ方はしない。
死にたいと思うことはあるが、それは自分が嫌いで無価値だと感じるからではない。
程度の良い大学を出て、仕事で評価された経験があり、収入も平均以上なので、自分はかなり有能だと思っている。
私が死にたいのは、労働をしなくては生きられないことや人間関係が苦痛で、そこから逃れたいからだ。
私は自分が大好きで、自分以外が嫌いなのだ。
だが、そのような自己評価とは裏腹に、自分はとても気持ち悪い存在だと考えている。
自分は誰からも愛されず、自分に愛情を向けられると相手は気持ち悪い思いをすると考えている。

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プロフィール

執筆者:マイナスニキ

30代会社員。
会社と業務は何回か変わったが、金融業界で10年ぐらい働いている。
会社勤めが好きじゃなく30歳くらいの時からアルコール依存気味になる。ここ数年は断酒とSLIPの繰り返しでうつ休職もしていた。
一人で出来る生業を見つけて会社に勤めないで生きることが目標。
好きな作家は太宰治と沢木耕太郎。

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