帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

タグ:会社に勤めない

考えてみれば、これまで生きてきて、他人より上手く出来たのは勉強と仕事だけだ。
ごく公平に言って、どちらにも感謝している。
勉強で結果を出して程度の良い大学に進学したからこそ、18歳で気詰まりな生家から離れて暮らすことが出来た。
職に就いて自分の稼ぎがあったからこそ、生家と距離をおいたまま自分一人で生きてくることが出来た。
だが、会社という枠の中で与えられる仕事を他人とすることで、私は壊れてしまった
これからは、一人で出来る活動で世の中で評価されなければならない。

独りでできる活動について思い巡らせた時、文章を書く、絵を描く、音楽活動、動画を作るといったものが思い浮かんだ。
やれやれ、俺は30代も半ばになろうとしているのに、これからクリエイターになろうっていうのか。
まるで『月と六ペンス』じゃないか。
もっとも、俺には捨てるべき妻子はいないが。
だが待て、これらの可能性の多くは、これまで自分が早々に見切りを付けて切り捨ててしまったものだ。
一つ一つ状況を見ていこう。
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ここ2年くらい、会社に勤めない生き方に関する本を読んできた。
論者の多くは、会社に勤めない人間であっても、コミュニティに属し交友関係を持つことを勧めている。
フリーエージェント社会の到来』のダニエル・ピンクは、会社における縦の繋がりとの対比で、フリーエージェントや起業家には横のネットワークが存在すると説明する。
また、『ニートの歩き方』等のpfaはネット上の緩いつながりが有益であるとし、シェアハウスにおける集団生活の利便性についても説いている。

コミュニティの利点

コミュニティに属すことの第一の利点は情報の入手だと思う。
インターネット上で探せば、多様な情報が入手できる。
だが、情報の海の中で、自分にとって重要なものを見つけるには羅針盤が必要だ。
自分のことをある程度分かっている人が「そう言えばこうゆう話があるんだけど知ってる?」とサジェストしてくれる情報は自分にとって有益な場合が多い。
もう一つは、ネットワークそのものに価値があるというものだ。
例えば、コミュニティの構成員の中で物の貸し借りをしたり、転居の折にまだ使える不用品を譲渡し合ったりと、物をコミュニティ内で緩く共有することが出来る。
また、病気の時にお互いに買い出しを便宜し合ったりすることも出来る。群れで生きるほうが死ににくいのだ。
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タイトル:自由な働き方をつくる-「食えるノマド」の仕事術
著者:常見陽平
出版社:日本実業出版社

著者は、リクルートとバンダイで勤務した後に独立した人物だ。
独立後は、人材コンサルティング会社の立ち上げに参画したり、大学院に行ったり、執筆家・評論家として活動している。
人材・キャリア関連で多くの著書があり、BLOGOSにも寄稿しているので、氏の文章を読んだことがある方は多いと思う。
本書は、日本でフリーランスとして生きていくためのストラテジーについて書かれたものだ。
その背景には、2012年くらいに流行った「ノマド」礼賛に対する著者の違和感がある。

著者は人事関連の仕事が長く大企業での勤務経験も長いので、極めて地に足のついた議論をする。
大企業のサラリーマンが独立する上で参考にするのであればもってこいのロールモデルであろう。
反面、雇われて働くことに絶望しており、この絶望をなんとかしたいと思っている人(私のことだ)には耳が痛い。
フリーランスであっても、人間関係から完全にはフリーになれるわけではないし、明確な強味がなければ仕事を得られない。

本書は5章だてで、以下の内容について語られる。
①日本における「働き方論」の変遷
②日本におけるフリーランスのリアル
③フリーランスに向いているかの自己分析の勧め
④⑤フリーランスで働く上でのノウハウ
②、③あたりもかなり面白いのだが、本稿では①について取り上げたい。

日本におけるノマドの支持者達の主張が楽観的に過ぎるのではないという違和感から、筆者なりにノマドを定義しようと試みる。
社会学者の古市憲寿の論考等を引いて、「ノマド」は会社に雇われない生き方(昔の脱サラと同じ)の2010年代版のスタイルであると仮定する。
戦前の漱石の作品によく出てくる高等遊民からは、どことなくノマドの匂いがする。
戦後の1960年台は、町工場を立ち上げる人間がたくさんいた起業家の時代であった。
その後の1970-80年代にかけては、脱サラブームが到来する。
1990年から2000年台初頭にかけては、フリーターや派遣社員といった働き方が登場した。
ノマドは、技術革新と社会の発展により自由な働き方のコストが低下したことにより産まれた、会社に雇われない生き方の現代版のスタイルなのだ。

また、当サイトでも取り上げたダニエル・ピンクの「フリー・エージェント社会の到来」についても言及されている。
ノマドの擁護者は、同書の「米国では4人に1人がフリーランス」という内容を引用する。
しかし、彼らの多くが、同書で言うフリーランスには配管工やトラック運転手などの職業も含まれている点を見落としていると指摘している。
確かに、同書のフリーランスは「自営業者」と解する方が日本人にはしっくり来るかと思う。

『社会人』という言葉に違和感がある。
違和感の正体は、社会人=会社員・公務員というようなイメージで語られることが多いことだ。
確か同じ趣旨のことが自称ニートのpha氏の本に書かれていたと思う。

自営業者や起業家は社会で実業を営んでいるが、『社会人』という言葉の範疇には通常は入らない。
また、学校の人間関係やそこで与えられるタスクは『社会』そのものだと思う。
学校で時間割に沿って行われるマスプロダクトの授業と集団行動を強いられる行事の数々は、近代的な工場とよく似ているのだ。
だが、『社会人』は多くの場合『学生』の対比として語られる。
雇われの給与所得者が割合において多数なのは認めるが、それを『社会人』と評するのは世の中のいろんな人に悪いんじゃないのかね。

だいたい、よく言われる『社会人』像が気に食わない。

社会人は遅刻をしてはいけない。

いやいや、電車が遅れたらしょうがないじゃないの。
昨晩飲み過ぎちゃったから通勤途中で腹が痛くなってトイレで長時間格闘して遅れてもいいじゃないの。

社会人は上司の命令には黙って従わなければならない。

いやいや、指揮命令系統は就業規則や職務分掌で決まってるから従いますけどね、言いたいことは言わせてもらわないと。
担当者として判子ついて稟議起案すの俺なんだからさ。

社会人は歓迎会してもらったら翌朝みんなのところに行ってお礼を言わなければならない。

いやいや、おごってもらって悪いなとは思いますけどね、あんまり飲み会とか好きじゃないんだよ。
勝手にやっといて押し売りしないでくれよ。
酒は一人で静かに飲むのが一番美味いという人間もいるんだってば。

社会人は年内最後の出社日は所属長(部長か支店長)のところに年末の挨拶に行かなければならない。

いやいや、うち休日カレンダー通りでしょ、大晦日と三ヶ日休んだらすぐまた会うでしょ。
そんな暇あるんならうちもさっさと御用納めにしようよ。

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匿名掲示板で無名の賢者が指摘していた。
「家と会社を往復する生活のどこに社会があるのか。」と。

だから私は社会人何年目なんて言わないようにしている。
大学出て働くようになって何年目とか、そういう言い方をしている。

これまで、労働観の変化生命維持のための人生の切り売りについていろいろ考えてきた。
これらの考えにより、自分の苦悩の深いところに近づけたとは思うのだが、100%の回答ではなかった。
そんなある日、ふと気がついた。
結局のところ、俺はやる気がなくなってしまったのだ、と。

人が労働に耐えるのは、何のためだろうか。
思いつくのは、金、世間体、自己実現
それらのどれにも執着がなくなった。
いや、執着しないことが自分の幸福だと気付いた。
労働に耐える理由が、無くなってしまった。

私が金を欲していたのは、金は自由をもたらすからだ。
生命維持の為に必要なものは全て金で買うことが出来る。
人生を豊かにするものも9割は金で買うことが出来る。

だが、自由をもたらすはずの金を手にするために、多大な不自由を甘受しているのも事実だ。
少なくとも労働の対価として金を得るというやり方は私にとって不自由極まりない。
結局、自由を得るために自由を失うという大きな矛盾に気がついてしまった。
労働をしてまで生きる価値は無いという考えに至ったのだ。
「金を稼ぐモチベーション」が無くなってしまった。 

世間体

私はずっと他人が怖かった。
弱みを見せればそれにつけ入り、どこまでも搾取しようとする人の狡猾さを畏れた。
世間体や肩書は、他人に弱みを見せないためには極めて有用だ。
一流とされる企業の社員であれば、知能も能力も高いという推量で以って見られる。
資金調達や契約におけるクレジットでも困ることは無い。
また、生身の自分が誰かに愛されうるという自信をついぞ持てなかったがために、自分を覆う優れた鎧を求めた。
肩書や収入で評価されるのを嫌悪しながら、それを取り去った自分に人を惹きつけるものが無いという逆説を抱えていた。

いつしかそのように他人の評価を気にすることに疲れてしまった。
孤独を嫌う人間と孤独でなければ生きられない人間がいて、自分は後者であることに気がついてしまった。
隠遁し、交易を断つことを嗜好するようになっていた。
「他人に良く思われようとする気」が無くなってしまった。

自己実現

資本にも才能にも乏しい人間にとって、会社で働くことは最も効率の良い自己実現の手段だ。
蓄積された資金・経営資源と、法務・労務・バックオフィスといった共通のインフラがあることによって、自分のタスクに専念できる。
多くの人間が自分のタスクに専念した結果として、個人では出来ない規模の取引やイノベーションに繋がる。
ごく公平に言って、私は働くようになってから、この組織のもたらすメリットを享受してきた。
大型の投融資案件にも関わったし、十数社の関係者を集めて合意形成をするような折衝もした。
苛つくことは多かったが、それなりの充実感があったことも確かだ。

今は、会社で働いてやりたいことが無くなってしまった。
毎日事務所に出向いて、話したくもない人間と話し、組織が決定したことを実現するために自分の時間を使って、ということに磨り減ってしまった。
金にならなくてもいいから、自分のやりたいことだけやって、自分の話したい人とだけ話していたいと考えている。
そういう人生が、金の項で述べた「生きる価値のある人生」だと考えるようになった。
「会社で働くやる気」が無くなってしまった。


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