帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

タグ:働き方

タイトル:我慢をやめてみる
著者:森川亮
出版社:朝日新書

LINEのCEOだった森川氏の本。
副題は『人生を取り戻す「起業」のすすめ』とあり、雇われて働くことの限界や起業家論のほか、ベンチャー企業の資金調達環境についても簡単に触れられている。
森川氏は2015年にC Channelという動画メディアの会社を立ち上げたので、良くも悪くも同社に関する記載が多かった。
同社を起業した時にすでに森川氏は著名な経営者であったので、参考にするには人を選ぶと思う。
新書なので、肩ひじ張るよりも森川さんの視点に触れるというスタンスで読むと良いと思う。
私は自分がうまく言語化出来ていなかった視点や新しい気づきがあり面白かった。

日本のソフトパワー

著者は「世界と勝負しよう」という章の中で、日本のソフトパワーは日本人が思うほど強くないと指摘する。
外国人に「日本はすごい」と言わせるテレビ番組が結構あるが、アジア各国で「おしん」がヒットした時代と比べると相対的に日本のソフトパワーは弱くなっているという。
例として、韓国メディアの世界を見据えたコンテンツ作りを紹介している。
旧ハンゲーム・ジャパンの元CEOが言うと説得力がある。
・語学→韓国のタレントとエンターテイメント業界関係者はだいたい英語ができる。またタレントは日本語などの第三外国語も勉強している。
・権利関係→韓国では放送局が自社でタレントを抱えているため、コンテンツの海外配信などのための権利調整がシンプルだという。
下段については昔の日本の映画会社と同じ仕組みとのこと。
当時は多くの映画会社がスターシステムを採用していたが、俳優が映画会社所属だったことも関係するんだろうなと思った。
(私はスターシステムという言葉は手塚治虫の漫画に関する解説で知った。ロックやランプやヒゲオヤジが色々な作品で別の役柄で登場するあれだ。映画のスターシステムとはちょっと違う。) 

農耕民族のハンディ

著者は日本でベンチャーが育ちにくい原因について農耕民族的なカルチャーが問題ではないかという分析をしている。
シンプルだが説得力がある。
・稲作は共同作業。水田に有限の水を引くために水路を話し合いで決める。
ルーティンを崩す者の存在は生産性を阻害するので、逸脱した行為をする者は村八分にされる。
そして、農村では仲間外れは貧困につながる。
・狩猟文化は群れの縛りが相対的に弱い。
より多くの獲物が見込める猟場を求めて群れを離れるものを引き留めない。
イスラエルの起業家曰く、「砂漠で承認がオアシスの情報を耳にしたとする。普段のルートに固執するのも、オアシスの情報を信じてそこに向かうのも自己責任。」

人材の流動性

本書では、日本の閉塞感の原因として人材の流動性が低いことを挙げており、対策として解雇規制の柔軟化を提唱している。
関係部署の働かないスタッフにイラつくことが多い私としては概ね賛成だ。
諸外国でバカンスを一か月取れるのは、生産性の高い人間しか働いていないからという意見は逆説的だが面白い。
本邦では、国家が社会保障を企業に押し付けているが、経営者と投資家でけでなく、生産性の高い労働者も割を食っているのかもしれない。
労働者を縛り付けるのは、社内の生産性の低い労働者なのかもしれない。

教育の在り方

本書では教育の問題にも踏み込む。
日本はパブリックスクールが多く、そこでは最大公約数的な教育をするため「普通の良い子」を作り出す。
また、意欲的な教員が新しい試みをしてもモンスターペアレントが潰してしまう。
私も常々、学校は近代的な工場と良く似ていると考えていたので、ここら辺は同感だ。
そして、一歩踏み込んで、大学で全員が学問をする必要もないという。
ドイツの例を出して、リベラルアーツ的な教育をする総合大学がある一方で、高校生から専門的な技能教育を行うような学び方もあるという。
不勉強を棚に上げて能力で区別することを嫌う人が多いのか、あるいは役所が研究者の受け皿として大学を増やしたためかは分からないが、日本だと下位の大学でも相応にアカデミックなカリキュラムを採用している。



タイトル:「働きたくない」というあなたへ
著者:山田ズーニー
出版社:河出書房新社

著者は、ベネッセコーポレーション(当時は福武書店)で小論文指導を長年勤めた後に独立。
現在はフリーランスとして、糸井重里のほぼ日刊イトイ新聞などに寄稿をしている。
本書も「ほぼ日」上で連載していた「おとなの小論文教室」というコーナーの内容をまとめたものだ。

-『結婚』が将来の夢であると言った男子学生
-「楽しく生きたい。そのためにお金がほしい。玉の輿に乗るための相手を探すために就職はする。」といった女子学生
山田が「働きたくない」という学生たちと話す中で感じた問題提起に対して、就職活動中の学生、現役の会社員、専業主婦、無職、様々な背景の人々が自分の考え方を投稿する。
彼らの「働くこと」に関する意見を、山田が自身の意見を交えて取りまとめていく。
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30歳を越えてから、残りの人生どのように過ごすべきかを良く考えます。
まだ答えは見つからないですが、読んでみて良かった本をまとめます。

<タイトルをクリックすると個別の記事にジャンプします。>

◯『働かないって、ワクワクしない?』 著者:アーニー・J・ゼリンスキー(邦訳:三橋由希子)

自由時間が沢山あればもっといろいろなことができるようになります。
自由時間を充実させるためのアイデアが沢山書かれているので、働くのが好きな人にも有用だと思います。

 ◯『持たない幸福論』著者:pha

私達は、親の世代や会社の上司の世代とは明らかに違う時代を生きています。
古い世代の常識に従うのではなく、自分で自分に必要な物を取捨選択する方が幸福になれるという本です。 

◯『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方2015』著者:橘玲

上の『持たない幸福論』とは趣旨が異なりますが、これも古いレジームに従っていては幸福になれないと指摘する本です。
『持たない幸福論』が考え方についての本だとすると、こちらは社会制度と経済についての視点で書かれています。
 
◯『ワーク・シフト』著者:リンダ・グラットン(邦訳:池村千秋)
2025年の世界はどうなっているかを予想し、私たちは働き方をどのようにシフトさせていけば幸せになれるかを考える本です。

◯『嫌われる勇気』著者:岸見一郎、古賀史健
他人との距離感が苦しい人にお勧めします。
「他人は自分を満足させるために存在するのではない」という言葉にはっとしました。

◯『アルケミスト-夢を旅した少年』著者:パウロ・コエーリョ(翻訳:山川紘矢、山川亜希子)
一つの物語に多くの寓話が散りばめられた、星の王子さまのような本です。
意志の力にフォーカスした記述が多く、前向きな気持ちになれます。

タイトル:自由な働き方をつくる-「食えるノマド」の仕事術
著者:常見陽平
出版社:日本実業出版社

著者は、リクルートとバンダイで勤務した後に独立した人物だ。
独立後は、人材コンサルティング会社の立ち上げに参画したり、大学院に行ったり、執筆家・評論家として活動している。
人材・キャリア関連で多くの著書があり、BLOGOSにも寄稿しているので、氏の文章を読んだことがある方は多いと思う。
本書は、日本でフリーランスとして生きていくためのストラテジーについて書かれたものだ。
その背景には、2012年くらいに流行った「ノマド」礼賛に対する著者の違和感がある。

著者は人事関連の仕事が長く大企業での勤務経験も長いので、極めて地に足のついた議論をする。
大企業のサラリーマンが独立する上で参考にするのであればもってこいのロールモデルであろう。
反面、雇われて働くことに絶望しており、この絶望をなんとかしたいと思っている人(私のことだ)には耳が痛い。
フリーランスであっても、人間関係から完全にはフリーになれるわけではないし、明確な強味がなければ仕事を得られない。

本書は5章だてで、以下の内容について語られる。
①日本における「働き方論」の変遷
②日本におけるフリーランスのリアル
③フリーランスに向いているかの自己分析の勧め
④⑤フリーランスで働く上でのノウハウ
②、③あたりもかなり面白いのだが、本稿では①について取り上げたい。

日本におけるノマドの支持者達の主張が楽観的に過ぎるのではないという違和感から、筆者なりにノマドを定義しようと試みる。
社会学者の古市憲寿の論考等を引いて、「ノマド」は会社に雇われない生き方(昔の脱サラと同じ)の2010年代版のスタイルであると仮定する。
戦前の漱石の作品によく出てくる高等遊民からは、どことなくノマドの匂いがする。
戦後の1960年台は、町工場を立ち上げる人間がたくさんいた起業家の時代であった。
その後の1970-80年代にかけては、脱サラブームが到来する。
1990年から2000年台初頭にかけては、フリーターや派遣社員といった働き方が登場した。
ノマドは、技術革新と社会の発展により自由な働き方のコストが低下したことにより産まれた、会社に雇われない生き方の現代版のスタイルなのだ。

また、当サイトでも取り上げたダニエル・ピンクの「フリー・エージェント社会の到来」についても言及されている。
ノマドの擁護者は、同書の「米国では4人に1人がフリーランス」という内容を引用する。
しかし、彼らの多くが、同書で言うフリーランスには配管工やトラック運転手などの職業も含まれている点を見落としていると指摘している。
確かに、同書のフリーランスは「自営業者」と解する方が日本人にはしっくり来るかと思う。

タイトル:ワーク・シフト
著者:リンダ・グラットン(邦訳:池村千秋)
出版社:プレジデント社

著者のリンダ・グラットンは、ロンドン・ビジネススクールで経営組織論の教鞭をとる研究者だ。
本書は、著者が主催するコンソーシアムで多くの職業人と討議した内容が元になっている。
議論の主題は、来る2025年の世界はどうなっているか、またそれに対して我々はどのように働き方をシフトさせていけば幸福になれるか、である。
邦訳の出版は2013年だが、原著の出版は2011年。実際にコンソーシアムの場が持たれたのは2009年から2010年にかけてである。
すなわち、15年後の未来について多くの職業人が討議した内容に基いて本書は書かれている。
ちきりんの働き方の本は多分にこの影響を受けている。

本書は4章立ての構成を取る。

第一章では、未来に影響をおよぼす要因を5つの分野に絞り込む。
要因1:テクノロジーの進化
要因2: グローバル化の進展
要因3: 人口構成の変化と長寿化
要因4: 社会の変化
要因5: エネルギー・環境問題の深刻化

特に私の関心に合致するのは要因3と要因4だ。

人口動態の変化と多様性の時代

長寿化により、65歳定年までに老後の十分な蓄えが出来る人間の割合は減少する。
70歳を超えても働き続けるためには、どのような職業人生を送れば幸福になれるのか。
また、人口構成の変化によりY世代(1980年から1995年生まれ。ミレニアル世代とも言う。)の影響力が拡大する。
デジタルネイティブが増加し、ワークライフバランスと仕事のやりがいを重んじる世代の台頭がどのような変化をもたらすか。
Y世代の高齢層として私見を述べると、このような価値観は低成長への適応に他ならない。
老後の安定は失われた。
ゆえに現在に強烈にスポットライトを当てる必要があるのだ。

社会と価値観の多様化は、多くの人に自分の価値観と向き合うことを求める。
おそらく、第二次世界大戦を経験した我々の祖父母の世代は、これほどまでに内省的になる必要は無かったのではないか。
それは、社会の発展がもたらした余裕でもあるし、成長余力の減少がもたらした窮屈さでもある。

暗い未来と明るい未来

第二章では、架空の未来を生きる3人の人々を通して、変化に対して漫然と対応した場合に訪れる暗い未来を語る。
具体的には、「情報技術の発達により常に時間に追われる未来」「リアルなつながりが失われた孤独な未来」「成長分野の変化により成長に取り残された地域の未来」の3つの未来像が提示される。

第三章では、変化に対して適応することでもたらされる可能性について語る。
「テクノロジーの進歩と知識のデジタル化によりもたらされる、一つのテーマに対して多くの人々が協業することが容易になる社会」
「Y世代の台頭がもたらす働き方の多様化。すなわち、一人一人の欲する働き方の実現がより容易になる社会」
「先進国から新興国、大企業から個人へのパワーの移転によりもたらされる、ミニ起業家の台頭」

目指すべき3つのシフト

第四章では、総括として、予見される未来の変化に対して私たちはどのように働き方を「シフト」させればよいかを検討している。
一つは人的資本の向上。
ゼネラリストではなく、「連続スペシャリスト」となることを提言する。
二つ目は、孤立するのではなく、協働すること。
少数の信頼できる同士(ポッセ)を得ることを提言する。
三つ目は、消費から経験へ、賃金から満足度へのシフト。
人生に関する「古い約束事」は、「働くのは給料を得るため、そしてその給料でものを消費することで私は幸福になる」という価値観だ。
これから台頭するY世代は、この古い約束事を守った親世代の破綻と葛藤を見ている。
消費では幸せになれないし、給料を得るための会社への献身は報われない場合も多いということを知っているのだ。
自分の求める働き方は何なのか。それを理解して、シフトして行くことを提案する。

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未来を見据えた行動は、現在の多数派からは異端とみなされる。
幸福になるためには、自分の求めるものと、自分に与えられた選択肢、この二つをシビアに判断する必要がある。
そして、自分の決断を信頼し、勇気を持って進んでいく必要があるのだ。

『社会人』という言葉に違和感がある。
違和感の正体は、社会人=会社員・公務員というようなイメージで語られることが多いことだ。
確か同じ趣旨のことが自称ニートのpha氏の本に書かれていたと思う。

自営業者や起業家は社会で実業を営んでいるが、『社会人』という言葉の範疇には通常は入らない。
また、学校の人間関係やそこで与えられるタスクは『社会』そのものだと思う。
学校で時間割に沿って行われるマスプロダクトの授業と集団行動を強いられる行事の数々は、近代的な工場とよく似ているのだ。
だが、『社会人』は多くの場合『学生』の対比として語られる。
雇われの給与所得者が割合において多数なのは認めるが、それを『社会人』と評するのは世の中のいろんな人に悪いんじゃないのかね。

だいたい、よく言われる『社会人』像が気に食わない。

社会人は遅刻をしてはいけない。

いやいや、電車が遅れたらしょうがないじゃないの。
昨晩飲み過ぎちゃったから通勤途中で腹が痛くなってトイレで長時間格闘して遅れてもいいじゃないの。

社会人は上司の命令には黙って従わなければならない。

いやいや、指揮命令系統は就業規則や職務分掌で決まってるから従いますけどね、言いたいことは言わせてもらわないと。
担当者として判子ついて稟議起案すの俺なんだからさ。

社会人は歓迎会してもらったら翌朝みんなのところに行ってお礼を言わなければならない。

いやいや、おごってもらって悪いなとは思いますけどね、あんまり飲み会とか好きじゃないんだよ。
勝手にやっといて押し売りしないでくれよ。
酒は一人で静かに飲むのが一番美味いという人間もいるんだってば。

社会人は年内最後の出社日は所属長(部長か支店長)のところに年末の挨拶に行かなければならない。

いやいや、うち休日カレンダー通りでしょ、大晦日と三ヶ日休んだらすぐまた会うでしょ。
そんな暇あるんならうちもさっさと御用納めにしようよ。

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匿名掲示板で無名の賢者が指摘していた。
「家と会社を往復する生活のどこに社会があるのか。」と。

だから私は社会人何年目なんて言わないようにしている。
大学出て働くようになって何年目とか、そういう言い方をしている。

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