帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

労働苦

ゾンビと労働の日々

復職して数ヶ月経ったとき、別の部署の顔見知りの人とこんな会話をした。
相手
「どう?復帰してもう慣れた?」
自分
『どうにも駄目だねぇ。
ゾンビになった気分だよ。
今の状況で自分の体がなんで動くのか分からないんだ。
活力なし、そして情熱なし。
なんで毎日電車に乗って会社に来れてるか分からないんだ。
なんで俺は今、働けているのだろう。』
相手
「今日は早く帰ったほうが良いよ。」

ゾンビの起源はブードゥー教の伝承だという。
ブードゥーの司祭(ボコ)は、呪術で死体を蘇生し使役するといわれている。
1960年台以降になると、ゾンビは『なんらかの方法で死体が動き出したもの』という設定でホラー映画などによく登場するようになる。
特にバイオハザード以降の世代だと、ウィルスの影響で死体がモンスター化したものという設定が最初に頭に浮かぶ人も多いのではないだろうか。


我ながら『ゾンビ』と言うのはなかなか良い例えだなぁ、と思ってゾンビについて調べていたら、興味深い記述を見つけた。
この術はヴードゥーの司祭の一つであるボコにより行われる。
ボコの生業は依頼を受けて人を貶める事である。
ボコは死体が腐り始める前に墓から掘り出し、幾度も死体の名前を呼び続ける。
やがて死体が墓から起き上がったところを、両手を縛り、使用人として農園に売り出す
死体の魂は壷の中に封じ込まれ、以後ゾンビは永劫に奴隷として働き続ける
   出所:Wikipedia -ゾンビ(強調は管理人)

なんてことだ!
ゾンビは労働のために作られるものだったらしい!!
そしてこれは人間の社会そのものじゃないか!!!
集団で取り囲み、揉んで、去勢して、詰めて、報酬をちらつかせて、価値観を植え付けて、本人の自由意志だと刷り込んで、労働だけさせようとするのだっ!
集団の流儀を頭と体に植え付けられたら人間としては死んだも同然だ、そこから先はゾンビとしてもの言わぬ奴隷として働くのだっ!
マイガッ!

現代のボコ(政治、集積した富、上の世代の価値観、足を引っ張るその他大勢)に死体をゾンビにされないためにはどうすればいい?
大丈夫、親切なWikipediaにはその先が書いてあった。

死人の家族は死人をゾンビにさせまいと、埋葬後36時間見張る、死体に毒薬を施す、死体を切り裂くなどの方策を採る。
死体に刃物を握らせ、死体が起き出したらボコを一刺しできるようにする場合もあるという。

私なりに人間の集団に合うように咀嚼してみよう。
・埋葬後36時間見張る
→死体をボコから遠ざけるんだ!孤立しよう。他人から離れよう。
・死体に毒薬を施す、死体を切り裂く
→利用する者にとって無価値なヤツになっちまおう!期待に答えるとか義務を果たすとか、利用するための言葉に騙されるな。
・死体に刃物を握らせ、死体が起き出したらボコを一刺しできるようにする
→反抗する力をつけよう。使役するために蘇らせたことすら利用してやろう。

自分が生者でもゾンビでもどちらでも構わない。
だが、性悪な司祭に使役されるのはどうにも耐え難い。


スポンサードリンク



ゾンビとは全然関係ないのですが最近読みました。
いつもより文章に勢いがあるとしたらこの影響です。
オン・ザ・ロード (河出文庫)
ジャック・ケルアック
河出書房新社
2010-06-04



「死ぬ」という選択肢が頭の中にある状態


  • 働く
  • 休む
  • 辞める
  • 死ぬ

朝起きた時に今日の行動を考える。
私が普段思い浮かべている選択肢は上に挙げた4つだ。
だいたいはこの通りのオーダーで、上の選択肢がNGの時は下の選択肢を検討することになる。
働けないなら休む、休んでも辛いなら辞める。
さらにどうしようもなくなっても死ぬという選択肢がある。

通常は、死ぬことに比べればそれ以外の「働く」「休む」「辞める」の方が容易だ。
だが、「死ぬ」という選択肢が一番上に来てしまうこともある。
(その都度NGを出して来たから今この文章を書けている。) 
坂口恭平は『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動なので、その時は何もしないで休む」という旨のことを言っている。
関連記事:誰かに「生きろ」っていうのは「死ね」っていうのと同じくらい暴力的だと感じる
これはとても素敵な考え方だ。
だけど、「死ぬ」ことは自分ひとりでも出来るため、状況によっては純然たる事実として他の選択肢よりも容易なのだと思う。

「働く」ことは辛い。
私はこれまで、結構自分の望むような仕事をして来たのだけれど、どれも楽しみを見出だせなかった。
正確には楽しい部分もあるのだが、上司や同僚や他部署の人や社外の関係者と一緒に働くしんどさが、それをスポイルしてしまう
通勤して事務所に行き、多くの人がいるところで働くというだけで疲れてしまう。
他人が関わると興味があったことでも辛くなってしまうことがある。 

「休む」ためには会社に一報を入れないといけない。
実はこれは社会常識という無根拠な規律づけだ。
連絡を入れないことによる不利益と比較衡量してなお連絡することが辛いなら、無断で休めばいい。
ただ、僕たちは無断で欠席したり欠勤するのはいけないことだと子供の頃から刷り込まれてきた
生政治 の担い手である学校という装置は、工場労働者に求められた規律を現在でも人々に埋め込み続けている。

「辞める」ための手続きもそれなりに面倒くさい。
私はフルタイムの仕事を2回辞めたことがあるが、いずれも以下のような流れだった。
最初に直属の上司に辞意を伝える。
所属長と役員まで伝わったら退職日を決めて退職届を提出する。
この過程で、翻意を促されることもあるし、退職日について両者の意見をすり合わせたりする。
ちなみに、病気で長期間療養する時も「辞める」時の手続きに近かった。
すなわち、レポーティングラインの人々に伝えて、日程を調整して、紙を提出する、という流れだ。
また、辞める時は家族への説明もかなりの労力を要する。
無職になることへの批判は容易に想像できるし、転職の場合であっても風当たりが強い場合が多いのではないだろうか。

僕たちは、働くことも、休むことも、辞めることも自分ひとりでは出来ない。
それに対して、死ぬことは自分ひとりで出来る。
(正確に言うと、死んだ後は遺族が役所や金融機関やインフラに対して手続きをしないといけないが、当人はそのことを考える必要はない。)
辛いときほど、一人で実行できる選択肢を容易に感じる。
だから、追い詰められれば追い詰められるほど「死ぬ」という選択肢の順番が上に来てしまう。
(あるいは坂口さんはここまで思い詰めてしまう状況を「脳の誤作動」と言っているのかもしれない)

多くの人は毎日の選択肢の中に『死ぬ』という選択肢は無いようだ。
分かってくれそうな人でも「朝起きてしようと思うことに『死ぬこと』がある」と言うと驚かれる。
他人と一緒に「働く」ことがそこまで嫌いではない人が多い。
また会社を辞めるにしても自分ほど周りへの説明を気にしてナーバスになる人は少ない。

では、一度頭のなかに『死ぬ』という選択肢が生まれると、それが頭の中から無くなる日は来るのだろうか。
永田カビさんがレズ風俗レポの 後日談で「ずっと頭の中にあった『死ぬ』という選択肢が久しぶりになくなった」という旨のことを書いていたので、きっかけがあれば解消されるのかもしれない。
ただ、新作を読むと今でも結構しんどそうなので、一度『死ぬ』という選択肢が出来てしまうと、やっぱりそう簡単には無くならないのかもしれないとも思う。

アルコール依存症の不可逆性についてよく言われる例えがある。
「アルコール依存症は進行性の不治の病です。たくあんが大根に戻らないのと一緒です。」
『死ぬ』という選択肢がある状態もこれに近いのではないか、というのが私の今の持論だ。



 

『生きるのがつらい』療養論(記事まとめ)

うつで休んでる間に自分の生き難さの原因とその対処について考えていました。
もう少し増やすつもりです。

<タイトルをクリックすると個別の記事にジャンプします。>

◯『生きるのがつらい』療養論1 うちなるカウンセラーを持つために
生き難さへの対処として、私は「健全な他者転嫁」が出来るようになることを目標としました。
自分の生き難さを自分から切り離すために「生育環境が人間に与える影響」「生物としてのヒトの特徴」「社会構造が人間に与える影響」が手がかりになりそうだと思いました。

◯『生きるのがつらい』療養論2 僕は機能不全家庭の子供だった
アダルトチルドレンという考え方は私にとってかなり衝撃的でした。
微妙な家庭で育ったという思いがある方は、「原家族にあった問題とルール」「そこで自分が果たしていた役割」「そこで自分に染み付いてしまった考え方」などを振り返って見ると今の自分の問題に近づける可能性が高いです。
吐気がするほどしんどかったけど、私はやって良かったと思っています。

◯『生きるのがつらい』療養論3 資本論と人間嫌いの葛藤
私は賃労働が嫌いだ。金持ちの家に生まれたので働かずに生きていける人間がいるということには腹が立ってたまらない。
それでいて、私は家族や他人からの自由を与えてくれる貨幣を求めてやまない。
私は、資本主義に対して苛立つことがあっても、地縁や血縁の濃密な資本主義以前の共同体は御免だし、革命のために他の労働者と団結するのも嫌なのです。

◯『生きるのがつらい』療養論4 僕たちは種としても個としてズレている(進化心理学とけものフレンズ)
生物としての人間は石器時代後期の環境に最適化されていると言われています。
そういった意味で、ヒトという種は自分達が作った現代社会からズレています。
また、同じ種の中でも個体差は相応にあります。
人によってズレてる部分は異なりますが、皆どこかしら標準的な個体からズレています。
そして、ズレている部分によっては、現代社会で生きるのが辛くなります。
おそらくそこには、原因はあるが目的は無い。

『生きるのがつらい』療養論3 資本論と人間嫌いの葛藤

療養中に、資本論の解説書を読んだ。

資本主義の解説書を求めて

私はこれまで、資本主義というものをあまり疑わなかった。
ニュースの意味を理解するようになる前に、ベルリンの壁もソビエト連邦も崩壊していた。
私が生まれ育った時代には、共産主義はすでに枯れた思想だったのだ。
政治思想を学ぶ中で、能力や生産に応じてではなく必要に応じて分配を受けるという共産主義の理念に共感はしたが、それは人間には実現不可能な夢の世界のように思われた。
市場を通した分配がうまくいくとは限らないが、私はそれ以上にオーソリティーによる分配のほうが信用できないと思う。 
ただ、共産主義が資本主義の代替として実現し得ないとしても、私が嫌悪する過剰な労働を生む装置(24時間営業やワンオペや残業ありきの社風)が資本主義の産物だということも事実だ。
共産主義の入門書ではなく、文字通り資本主義の解説書として資本論を学びたいと思った。

ちなみに、私が初めて資本論に言及する文章を読んだのは、『ナニワ金融道』で知られる漫画家の青木雄二のエッセイだった。
なんでも、青木は漫画家になる前に自分が作ったデザイン会社を倒産させてしまった経験があり、仕事がない時期に資本論を読んだことがきっかけでマルクスに傾倒するようになったという。
幸か不幸か私も当時の青木とちょっと似た状態だ。
資本論の勉強をするにはちょうどよいタイミングだろう。
とはいえ、原著を読むのは骨が折れそうなので、薄い解説書と厚い解説書を読むことにした。
カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) [新書] (薄い解説書)
〈資本論〉入門 [単行本] (厚い解説書)

資本論は結構思慮深かった

読んでいると、想像していた以上に思慮深く現代的な記述が多く驚いた。
例えば、労働者に対して猛々しく団結を説く共産党宣言とは異なり、資本論では「資本家」と「労働者」を個々の人格としてではなく、あくまで抽象的な役割として論じている。 
現代では、証券口座が市民にもく普及しており、公的年金や保険を通した間接的な保有も合わせれば国民の多くが「株主」としての顔を持つ。
このように、資本が一定程度民主化され「労働者」が「資本家」を兼ねるようになった現代においても、「資本家」と「労働者」を社会構造における役割として考えるのであれば一般性は失われない。

資本論と働くのが嫌いでケチな私

特に印象的だったのは、資本論における商品論と貨幣論が、私の労働嫌悪ゆえの思考や貨幣観と整合的だったことだ。
当サイトにもしょっちゅう書いているのだが、私は働くのが嫌になってからお金が使えなくなったし、お金を使わないと生命が維持できない人間は呪われた存在だと考えている。
だが、そのような考えとは裏腹に、私はお金を嫌悪するのではなく、自分に自由を与えてくれるものとして心の底から欲している。

資本論と照らして見てみよう。
1.労働力商品
生産手段を持たない労働者である私は、労働力以外に売る物がない。
持たざる者として「労働力を売る自由」があるのみだ。
2.労働力の価値
そして、労働力の値段は労働の再生産にかかる費用から決まる
明日からまた働けるだけの状態を維持するための費用が労働力の対価として支払われるのだ。
それゆえ、妻子がいない私のような人間でも、衣食住を満たしたうえで手元に残る金額は多くない。
賃労働に身をおく限りは、働けなくなるまでそれから解放されないのだ。
また、私は常日頃から、労働力を売ることで労働者に発生する出費はばかにならないと考えていた。
例を挙げると、以下のような具合だ。
・自分で食事を作る時間を奪われるために外食に高い費用を払わねばならない。
・仕事のストレスの発散のために娯楽や遊行にお金を使う誘惑にかられる。
・休日が他の労働者と集中するので、レジャーなどで混雑する時期に高額な費用を払わねばならない。
・古本屋を回ったりオークションを調べる時間が無いため、中古品を安く手に入れる機会が限られる。
高ストレスで拘束時間が長い仕事ほど給料が高いのは、労働力の再生産コストが高いからだという理解も成り立つ。
賃金が労働力の再生産のためのコスト分だけ支払われるのであれば、衣食住や娯楽を削って自己を再生産する費用を下げることでしか僕たちは自分の手元に金を残せないことになる。
そのように考えると、生命の維持はやはり呪いだ。 
3.貨幣のフェティシズム
貨幣から商品への交換は「一般」から「特別」への交換である。
そして、他の多数の商品と交換可能な貨幣はいつしか特殊な価値を持つようになる。
特別な財だとみなされるようになった貨幣は、単なる流通の便宜のための道具ではなく、人間の行動様態に影響を及ぼすようになる(物象の人格化)。
貨幣を際限なく貯蔵する欲求を抱かせるだけでなく、貨幣を通じて実現される自由、平等、所有が人間の普遍的な権利であるというイデオロギーを形成させる。
貨幣は私の中では、お金があればコミュニケーションを削減できる、お金があれば働かなくても良い、お金を稼いでいるうちは家族にも文句は言われない、という思考として人格化した。
他者からの自由のために貨幣を求めてやまない私は、賃労働を嫌いながらも貨幣のフェティシズムに支配されている。

(その他にも「分業は労働者を疎外する」とか「生産力の向上は過剰な労働力を生むから労働者に不利になる」といったことは覚えておくと健全な他者転嫁をする上で有用だと思う。)

資本論と人間嫌いな私

このように、資本論は結構私の悩みにしっくり来る思想だったのだが、引っかかる点も相応にあった。
一番疑問だったのは、マルクスは資本主義以前の家族や共同体のような人間関係を美化しすぎているのではないかということだ。
例えば家族について言えば、共産党宣言に以下の文言が出てくる。
”ブルジョア階級は、家族関係からその感動的な感傷のヴェールを取り去って、それを純粋な金銭関係に変えてしまった。”
とてもじゃないが、私は家族がそんなにロマンティックなものだとは思えない。
また、濃密な地縁関係の中で生きるよりも隣人を気にせず暮らせる現代の都市生活の方が煩わしくないし、徒弟制度よりも本とネットで勉強する方が気が楽だと思う。
私は地縁・血縁の共同体の一員として生きたり、革命のために他の労働者と団結するよりも、貨幣で結ばれた関係の方が気楽なのだ。

階級闘争よりも身近な感情

私は労働と貨幣から生じる生き難さを持っている一方で、貨幣から離れて濃密な人間関係の中で生きていくこともしたくない。
袋小路のような資本の迷宮の中で、なんとなく救いがあるように感じたのは、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉だった。
シュンペーターは経済学者としてのマルクスの功績を高く評価しており、著書の『資本主義、社会主義、民主主義』の最初の章を社会主義、すなわちマルクスの経済理論の考察に当てている。
その中で彼は、
「マルクスは労働者の本音を階級意識に基づく社会発展という啓示にすり替えた。実際には、多くの労働者はプチブルジョアになりたいと考えている。」
という、身も蓋も無いがその通りのことを言っている。

幸福は比較の中で感じられることが多い。
他者との比較によってもたらされることもあるし、過去との比較(すなわち変化)の中で感じられることもある。
労働者がプチブルジョワになると他者との比較でも過去の自分との比較でも幸福を感じられる。
疲れることが多いけれど「能力を発揮して対価を得て、過去の自分や他者よりも豊かになる」ことには、やはり抗いがたい魅力があるのだ。

資産家の家に生まれて労働をしなくてもいい人間がいることは不公平だと思うし、そういう人はとてもうらやましい。
働く時間と場所に自分の自由が無いことや、社会や会社のつまらないルールに従わなければならないことは辟易する。
そのような、生まれながらの富の偏在と画一的な賃労働を生む資本主義には不満がある。
だが、全ての人間が寝て暮らせる時代は無かったし、他者との距離は資本主義以前の社会の方が近かった。
だから、もうしばらく降りないで働いてみようと思った。
一応、資本主義は人間嫌いな私にはそれなりにフィットしているような気がするから。

 
----
私が今回読んだ「薄い解説書」。
『大学四年間の哲学が10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)で推薦図書として挙げられていたので最初に読んだのだが、要点がわかりやすくまとまっているとても良い本だった。
資本論の概要の説明が100ページくらいでされている恐るべき本(残りの150頁ではマルクスの生涯と最近のマルクス研究について解説している。)。
---
「厚い解説書」はこちら。
著者のハーヴェイはニューヨーク市立大学で経済地理学とマルクスを研究しており、米国中で資本論の講義をしている。
本書は資本論を読み通すためのガイドとして書かれたもので、資本論の構成に沿って適宜原文を引用しつつ、現代的な解釈も絡めた説明をしている。
読みにくい本では無いのだが、初めの数章は原著がそもそも難解なので、200ページ位までは全部理解しようとして読まないほうが良いと思う。 
 

望んでもいないのに産み落とされ、労働や人間関係で疲弊しながら生きるのが人生なのか

30歳前後の時分から、ずっと考えている。
なぜ望んでもいないのに産み落とされ、労働や人間関係で疲弊しながら生きるのか。
答えは出ないのに、ぐるぐると、ぐるぐると。

きっかけは労働苦だったのだと思う。
もう10年間働いてきたが、どうしようもなく疲れてしまった
朝決まった時間に起きるのが嫌だ。
わざわざ電車に乗って事務所に通うのが嫌だ。
案件を上司に説明して決裁を得るのが嫌だ。
社外の関係者と話すのが嫌だ。
社内の関係部署と話すのが嫌だ。
昼飯を家で食べられないのが嫌だ。
振られる仕事に対して選択権が無いのが嫌だ。
そもそも人と話したくない。
続きを読む

24時間営業のスーパー、搾取工場の労働者、どこまで自分の問題として考えられるか

先日、鶴見済氏の『脱資本主義宣言』を読んだ。
大学の寮の共有スペースに置かれていた「完全自殺マニュアル」と「人格改造マニュアル」を読んだのが、氏の著作との出会いだった。
本書では、経済発展中心の考え方の不合理な点について、感情に訴えるのではなく、理屈と歴史的な経緯を説いて問題提起している。
私は、環境保護や貧困問題のように、大義のために自分が不自由になろうという考え方は少し敬遠してしまう質だが、本書はトーンが押し付けがましくないので純粋に興味深く読めた。

本書のメインテーマとは異なるのだが、ものごとに対する共感や憐憫や義憤の度合いは、詰まるところどこまでリアリティを持って自分の問題として考えられるかで決まるのだろうと考えた。
(本の紹介記事は改めて別に書きたいと思います。)

過剰な労働を生む装置への嫌悪

私は労働が嫌いな人間だ。
それゆえ、人間を過剰に労働させる仕組みも大嫌いだ。
スーパーマーケットやファミレスが24時間営業する必要はないし、商店が年中無休で営業する必要も無いと考えている。
また、一時話題になったワンオペのように、人件費を削って店員がいつも忙しそうにしている店も見ていて心が痛む。
労働は嫌だという意見で意気投合していた友人が、あっけらかんと「24時間営業のスーパーは便利だ」「~~は元旦に開いていなくて不便だった」と言っていたのを聞いて、「お前は労働が嫌いなくせに過剰な労働を生む装置については気にならないのか」とその無神経に憤りを覚えたこともある。
続きを読む

大義のための不自由になれる人間への嫉妬

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読んでいて思ったことだ。
著者のマーク・ボイルは、食い物や環境負荷について結構なこだわりがある人間のようだ。
オーガニックの野菜にこだわりがあり、サプリメントの使用は論外だと言う。

対象的に、私は生活にかかる費用は安ければ安いだけ良いという主義だ。
食事であれば、安価な炭水化物で空腹を紛らわして、不足するビタミンとミネラルは安価で簡便なサプリメントで補えば良いと考えている。
食事だけでなく、衣食住のような生命の維持にかかる出費は現代人にとって呪いのようなものだと考えている。
それらにかかる費用を最小限に抑えれば、それだけ理不尽な労働から逃れられる。
人生の切り売りから解放される。
望んでもいないのにこの世に生を受け、労働により糧を得なければ生命を維持できない。
労働への憎悪が、生命と生活への憎悪につながっているのだ。
続きを読む
プロフィール

執筆者:マイナスニキ

30代会社員。
会社と業務は何回か変わったが、金融業界で10年ぐらい働いている。
会社勤めが好きじゃなく30歳くらいの時からアルコール依存気味になる。ここ数年は断酒とSLIPの繰り返しでうつ休職もしていた。
一人で出来る生業を見つけて会社に勤めないで生きることが目標。
好きな作家は太宰治と沢木耕太郎。

記事検索
注意事項と免責事項

※当サイトはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

※当サイトでは資産運用、法律、税務などについて運営者の認識や見解を述べることがあります。記事の作成にあたっては専門書や信用のできる情報源に基づいた正確な記載を目指していますが、当サイトはその正確性を一切保証しません。実際の取引や実務上の判断にあたっては、専門家に相談のうえ、自己責任で行ってください。

広告
「Amazonライブリンク」は提供を終了しました。