帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

タグ:労働苦

隣の席に問題人物が座っていたことがある。
・独り言が大きい
・バリバリ音の出るものを食べる
・飲み物が臭い
・ひどい咳なのにマスクをしない
集中力をそがれるし、単純に不愉快だ。
同じような経験をされた方も結構いらっしゃるのではないだろうか。 
だいたい日本でよくある「島」レイアウトがよろしくない。
両隣と対面で3人と接さなければならないので悲劇が起きる確率を高めている。

別の記事でオフィスの問題人物への対処について書いたが、この人ばかりは対処に困った。
(関連記事:つまらないことが気になるのはそもそもその人が好きじゃないから) 
耐え切れずに私のほうがマスクをしたり耳を手で覆ったりしても何も察しない。
私が異動でその部署に来た後に産休から復職した人なので、席を決めた人たちはこういう問題人物だと分かった上で私の隣の席にしたのだ。
自分を他の担当者と比べて重要視していないからわざわざ私の隣に配置したのだろうとも考えた。
もとから薄かった会社への忠誠が更に低下し、憎悪すら感じた。

結局、会社は私の働く環境や健康に気を使ってくれない。
会社は私の会社での仕事の成果にしか興味が無い。
(にも関わらず成果で報酬が必ずしも決まらない。)
集中出来る環境も健康も仕事ぶりに大きく関わるが、そこは自己責任とされる。 

雇われて働くというのは煎じ詰めるとこういうことなのかもしれない。
働く場所を選べない。
オフィスの所在地という地理的な問題だけでなく、オフィス内のレイアウトでさえそうだ。
先進的な会社なら在宅勤務フリーアドレスを認めているかもしれないが、残念ながら一部だ。
ダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来』では、「会社員の満足度を最も高める施策は高給でも福利厚生の充実でもなく、自由な勤務体制を認めることである」という調査が紹介されていた。

最初の話に戻るが、この人に限らず、咳やくしゃみに無頓着な人間が多く腹が立つ。
誰も他人から出た飛沫なんて吸い込みたくない。汚い。
ここ数年、冬場はずっとマスクをしている。
自分は滅多に風邪をひかないにもかかわらずだ。
 

少し前に、最初に務めた会社の同期入社の友人数名と飲みに行った。
年に1回くらい会っている人もいたが、数年来の再会となる人もいた。
私は今の会社が3社目なのだが、 私ともう一人を除いては、皆最初の会社で働き続けている。
とはいえ、最初の会社も仕事はそれなりにタフだし、異動出向転勤はそれなりにあるので、同じ会社で働いていてもみんな相応に幅の広い経験を積んでいる。

何とは無しに「どの会社が一番良かった?」と聞かれた。
私は即答した。
「どれも嫌だ。全部最悪だよ。」
これには一同苦笑。

待遇は最初の会社で働き続けた場合が一番良かったと思うが、それ以外の会社も格や専門性では劣らない。
ちゃんとした会社だ。
だが、全部最低だ。

「結局、俺は皆と違って働くのが大嫌いだから、人に嫌われてクビになっても全然良いと思っている。
ちゃんとした会社だとさ、仕事や会社が好きな人が多いじゃないか。
そいつらに言ってやるんだ。
俺はお前が大切にしている仕事とこの会社は全然好きじゃない。
ゴミみたいに捨ててやりたいと思っている。

でもそうやって今の自分の仕事が嫌いで全然大切じゃないと思ってると、結構いいパフォーマンスが出たりするんだ。
言いたいことも言えるし、余計なこともしなくて済むから。」

「しんどそうだけど、そこまで言い切れるのは少し羨ましい。」
奇譚の無い感想である。
羨ましがられる要素は無いけれど。


以前に孤独死が嫌だと言った先輩の話を書いたのだが、私はむしろ孤独死どんと来い。
(関連記事:どんとこい孤独死
家庭はいらないと考えている。
もっと言うと、持家もいらないと考えている。
重たいものに耐えられそうにないというのと、会社で働くのが嫌だからというのが理由だ。 
この2つは、私に労働を強いるから欲しくない。

家族はいらない

家族はずっといらないと思っていた。
生家が幸福な家庭ではなかったし、周りに人がいるのが苦手だからだ。
孤独死が嫌だという人もいるが、私はむしろ一人で生きて一人で死ぬことが望みだ。
孤独を嫌う人と孤独を必要とする人間がいて、私は後者なのだ。
また、自分の人生を肯定的に捉えられないので、生命を生み出すことにも抵抗がある
生まれてきてよかったと思っている人が多数派なのかもしれないが、私は生まれてこなければよかったと考える方の人間なのだ。 
妻子を養うために自分が働き続けるなんて考えただけで寒気がする。
自分の子孫も労働に人生を浪費して死んでいくなんて、悪夢のような連環だ。
家族を作る人が多数派なので、少数派の私は少々生き難い場面もある。
だが、ただそれだけのことだ。

家はいらない

家はちょっと前までは物件次第では買っても良いかと思っていた。
値上がりする可能性のある、資産性のあるものにお金を投資するのは好きだからだ。
また、高齢になったり定期収入が無くなると家を借りるのは難しくなるし、そうでなくても賃貸借にあたっては保証人や緊急連絡先等自分一人で完結できないものを求められるので、購入してしまうとその辺の面倒からは開放されると考えていた。
だが、以下のポイントを考えるとやっぱりいらないと考えてしまう。
一つは、ローン返済のためにずっと働かなければいけなくなること。
負債のために働かなければいけないという環境は私にとっては耐え難い地獄だ。
やっぱり資産性の期待できる都心の物件は住宅はローンで購入せざるを得ないくらいの高値だ。
二つ目は、他の選択肢に使う資金がなくなってしまうこと。
橘玲の著書でもあったが、住宅を購入したら個人の資産運用はそこでおしまい
せっせとローンの繰り上げ返済に回すのが最善の投資行動ということになる。
三つ目は、住居に金を使うのが惜しいということ。
住居のためのコストを減らせば、その分労働時間を減らせる
労働時間が減れば、その分自分が望む活動に時間を使えるようになる。
ここらへんは坂口恭平の影響だ。

-----

pha氏の「持たない幸福論」だと、上記の二つの考え方はもっと別の側面から書かれていた。
家庭についての考え方は面白かったので簡単に紹介する(以下は要旨をまとめて書いてます)。
「恋愛結婚で結ばれた男女とその子供、という現在の家族のスタイルは、戦後のイエに縛られた人間を開放した。
その反面、育児や介護といった難題も家庭内で完結させるべきというタフな自己責任論を作りだした。
これは親世代が結婚した時にはあまり意識されていなかった問題だ。
だから、親世代の結婚観や家族間を所与のものとするのではなく、自分がどうしたいかを改めて考える必要がある。」

私の考え方の根底にあるものを見つめてみると、家族と持家の否定の大部分が労働苦により構成されている。
賃金労働への憎悪が、人生への嫌悪を生み出している。
賃金労働への憎悪が、消費の場としての家庭を重たいものとしている。
賃金労働への憎悪が、不動産の所有によりもたらされる種々の制約を受け入れがたいものとしている。

仮に賃金労働以外で自活の道が立てば、案外と簡単に考えを改めるのかもしれない。
そこに至るまでが簡単ではないのだが。 


ここ数ヶ月、平日がまったく楽しくない。

朝は6時には起きているのだが、出社時間ぎりぎりになるまで起き上がれない
時計が進むのを見たり、タブレットでニコニコ動画を見て気を紛らわす。
流石に夏場なのでシャワー浴びるが、5分くらいしか時間が取れない。
カラスの行水、そんな言葉が頭に浮かんだ。
通勤中も音楽を聞きたくなくなった。

なんとか出社し席についても午前中は思考にもやがかかった状態で辛い。
優先のタスクをもやのかかった状態でも出来ることから進める。
ダメなときはトイレの個室や非常階段で、「会社辞めたい」「死にたい」と検索して少し落ち着く。
何も出来ない時はじっと手を見ている。
アウトプットさえ出ていればこれでも文句を言われないのはまだ良い方なのかもしれない。
昼飯は食わない。
とはいえ事務所にはいたくないので、コーヒーショップや公園に避難して「会社辞めたい」「死にたい」と検索する。
または、2ちゃんねるの転職板の「朝起きたら鬱だ会社行きたくない」スレッドや、リーマン板の「生きる意味が分からないリーマン」スレッドを見て落ち着く。
午後は少し気持ちがましになる。
仕事が終わっても帰りにストロングゼロをしこたま飲んで気絶するように寝てしまう。
オフィスを出たその瞬間から、もう既に明日が来てほしくない。
寝ている間に世界が滅んで欲しいと、久しぶりに思うようになった。

休日は楽しい。
普通に起き上がれるのだが、それでも朝から酒を飲んでしまうことが増えた。
さすがにもうダメかもしれない。
楽しかった日々はもう戻らない。
いや、それとも毎日が楽しかった時期なんて昔から無かったか。
いずれにせよ毎日こんなに辛いのはおかしい。


 
ファイト・クラブ [Blu-ray]
エドワード・ノートン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2014-03-05

最近またアル中になった。

毎晩ストロングゼロを5本飲んで倒れるように寝ている。
だいたい22時過ぎには倒れてしまうので、午前2時位に目が覚める。
そうなるともう眠れない。
本を読む気にもならないので、身を横たえたまま、時計をじっと見ていた。
なぜか。
時計の秒針が進むのを意識して見ていると、時間が進むのがゆっくりになった気がするからだ。
それくらい明日が来るのが嫌だ。

何も考えない。
何もしない。
何も出来ない。
ただ、時間がゆっくり過ぎていくことを願う。
 

 

朝、通勤電車内で腹痛に見舞われた。
昨夜久しぶりにコッテリ系のラーメンを食べたせいかもしれない。

この場合、通常考えられる選択肢は2つだ。
①次の駅で降り、駅のトイレの長蛇の列に並ぶ。
②肛門を引き締め事務所のトイレまでこらえる。

ふと、このまま漏らせば今日は出社しないでいいなと考えた。
もう一歩進んで、会社で漏らせば今後も出社しなくていいな、と考えた。
ニコニコ動画で見た尊師MMDの動画が記憶にあったからかもしれない。

幸運にも、腹痛はじきに治まった。
いや不幸か。
欲求が強くなりすぎると、体はそのための理由を作り出すのだ。

あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )

 

先日、2年ぶりに過食嘔吐をしてしまった。
土日プラス月曜有給で3連休にした最終日、あと12時間後にはまた労働かと思うと抑えが効かなくなってしまった。

やっちまったこと

街をぶらつきながらストロングゼロを飲んでいた。
ぶらぶら、ぶらぶらと、目的もなく歩きながら350ml缶を4本飲む。
前後不覚になりながら、昼飯の豆腐以来何も食っていないなと思い、スーパーに立ち寄る。
惣菜パンを一つと5本目のストロングゼロ、そして半額になっていた弁当を買った。
惣菜パン食べながら帰路につく。
その時点ですでにギアが誤った方向に入ったのかもしれない。
満腹中枢麻痺状態。
最寄り駅のパン屋で大振りなチーズパンを買い求めた。
自宅付近のコンビニでバターロール4個入りスナック菓子を買った。

家についた。
飲み過ぎでもう眠たい。
だが眠ると明日が来てしまう
気が付くと、2食分くらいある大振りなチーズパンを7割がた食べていた。
ままよと思い、残りを平らげ弁当を温める。
電子レンジが回るのを待ちながらスナック菓子に手を付ける。
この時点で、後で吐こうと決意した。
弁当、スナック菓子、バターロール4つを平らげた。
これで3,000キロカロリーくらいだろうか。
酒を入れても4,000キロカロリー、実はカロリー摂取って意外とここらへんが限界なのだろうか。
酔いのせいか過食のせいか、とても気持ちが悪い。
水をしこたま飲み、胃の内容物を吐き出した。
片手で腹のあたりをぐにょぐにょ押すと吐きやすい。
学生の時に覚えた。
もっとも当時は酒を買えば飯は腹いっぱい食えない程度には貧しかったので、太る心配は今ほどしていなかったが。

過食嘔吐の問題点

過食嘔吐は若い女性に多い摂食障害らしい。
確かにいい年したおっさんがやってもいまいち様にならない。

酷くなると習慣的に行うようになり、必要なエネルギーが取れなくなる。
また、吐き戻す様子は汚いし、水回りを詰まらせることもあるので、家族と同居だと不和の原因になる
他に代償行為を見つけて、過食嘔吐は避けた方がいい。
どうしても抑えられない時は、のどちんこを傷つけないこと吐いた後はうがいや歯磨きをして歯を胃液から守ること、この2点に気をつける。

私が過食嘔吐に至った思考

私は一番やばい時でもせいぜい週に1回ペースだった。
健康の維持には支障は無かったと思うが、なんとも惨めな気持ちになる。
当時はかなり深い絶望の中にいたので、毎日が人生最後の日のようだった。
そして、最後の日の晩餐が過食嘔吐だった。
明日になれば俺は死ぬ、だからせめて今、腹いっぱい食いたい。
そのように考えていた。
もっとも、私の最後の晩餐はパンと葡萄酒ではない。
ぶどう酒の代わりに、焼酎、ストロングゼロ、安価なウィスキーが振る舞われた。
パンの代わりに、スーパーの半額の弁当や、大袋入のチョコレート、スナック菓子などが振る舞われた。

腹に収めたまま消化してしまえば良いのだが、それはそれで抵抗がある。
最後の晩餐の後、官吏に引き渡され磔刑に処されたキリストと違い、私には明日が来てしまうのだ。
過食で太ったら余計に毎日が辛くなるのだ。



上に挙げた私の過食嘔吐に至る思考は認知の歪みの産物です。
タフなタスクがうまくいかなくても死なないし、通勤できないほど辛いなら休めば良い。
ただ、心が弱っていると、この思考の客観化が出来ない。
弱った心はヒューリスティックに、酒の快楽や食の快楽で明日のストレスに立ち向かおうとする。
↓は認知療法についての解説書です。
悩みを書き出してみるとか、自分の思考にツッコミを入れてみるとか(論理療法)、単純だけど実践的な対処法も書かれています。

↑このページのトップヘ