遠藤周作原作の『沈黙ーサイレンスー』の映画を見た。
メインテーマの「神と信仰」だけではなく日本人論にも繋がる内容であり、出演者の演技にも熱が入っていた。
長くて重くて視聴後にしんどさが残る内容だったが、見てよかったと思う。
虐げられた弱い人々が神にすがる。
迫害を受け弱さ故に信仰を捨てる。
神と他人を裏切りそれでも許しを求める弱さ。
敬虔な信仰を持たない者の一人として、私は長らく、人間が「弱さ」ゆえに神を必要としたのだろうと単純に考えていた。
しかし、信仰を求めるのも信仰を捨てるのも人間の弱さから生じる。
弱さ故にすがった神であっても、祈りを捧げるうちにいつしか自分の精神を構成する一部分となり、それを自分の内側に維持し続けるには強さが必要になる。
そんなことを考えた。

私が、遠藤周作の著作で読んだのは『海と毒薬』『悲しみの歌』『深い河』 の3作だけだ。
この中では、私は『悲しみの歌』に一番衝撃を受けた。
あまり知られていないのだが『海と毒薬』の続編にあたる作品であり、しかも『海と毒薬』よりもずっと長い。
少し前に「悲しい物語に感情移入しすぎて辛くなってしまうことがある」という旨のことを書いた。
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『悲しみの歌』はまさにそのような作品だ。
(ネタバレ上等の方はWikipediaに結末まであらすじが書いてあります
リンク:Wikipedia 悲しみの歌
私が正論を振りかざす人間や苦悩と無縁そうな人間を引いた目で見るようになったのはこの作品の影響かもしれない。
また、その一方で、どんな人間でも悲しい物語を持って生きているのかもしれず、それゆえに一方的な断罪はフェアではないとも考えるようになった。
カントは人間は理性の持ち主ゆえに尊敬に値すると言ったが、私は人間は悲しい物語の持ち主だからこそ尊敬に値するのだと思う。
(まぁ本当に苦悩や悲しみと無縁の人間もいることはいるんだろうけど。)

全能の神は人に対して沈黙を貫く。
弱さゆえに人は神の言葉を語る。
弱さゆえに人は悲しみの歌を歌う。
悲しみの歌が聞こえなくなる場所を楽園とか天国と呼ぶのだろうか。