帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

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幸せそうにしている人間が憎くて仕方がないと思う時がある。
世襲財産を持つ者、幸福な家庭の出身者、集団の中にいても疲れない人間
お前らが幸福なせいで俺が不幸なのだ、と。

プラスサムとゼロサム

「自分の不遇の原因は別の誰かが利益を得ているからだ」という思考は様々な場面で見られる。
利得を得ているのが顔見知りであれば嫉妬や争いにつながる。
受益者と非受益者が階級や集団で区分される場合は社会運動や革命につながる。

とはいえ、常に他人の利得と自分の利得をつなげて考えている人はあまりいないだろう。
人間の中には、世界をゼロサム的に考える部分と、プラスサム的に考える部分がある。
例えば、余裕がある時のほうが世界をプラスサムで捉えやすいとのではないか。
また、人によってもゼロサム思考かプラスサム思考かという傾向の違いがあると思う。
私みたいに人間不信の人はゼロサム思考の人が多いのではないだろうか。

※プラスサムとゼロサムについて金融取引の例を出す。
例えば株式投資はプラスサムの取引だ。
自分の保有株が購入価格よりも高く売却出来て利益が出たとしても、買い手が必ず損をするわけではない。
買い手はその値段には投資妙味があると判断したからこそその値段で購入したわけで、それ以降の値上がりで利益をあげられる可能性がある。
すなわち、皆がハッピーになれる可能性があるのがプラスサム・ゲームの世界だ。
これに対してデリバティブはゼロサムの取引だ。
先物もオプションも買い手の利益は売り手の損失に等しいし、逆の場合も然りだ。
ゼロサム・ゲームの世界では、誰かの利得は必ず別の誰かの損失になる。
業者の手数料がかかる分だけマイナスサムとも言える。
例えば、くじは業者の手数料がべらぼうに高いマイナスサム・ゲームだ。

裏切り者発見装置と所属の多層化

私は物事をかなりゼロサム思考で考えてしまう。
老人や弱者のセーフティネットのために社会保障費と税金を奪われるから、自分はいつまでも労働から解放されない。
多数派である集団が苦ではない人間が生きやすい社会を作っているから、一人になりたい自分は生き難い。
幸福な家庭の出身者が無遠慮に自分の価値観を押し付けるから、家族に複雑な感情を持っている自分は本音を話せない。

最近考えたのが、ゼロサム思考は脳の裏切り者発見装置の誤作動ではないかということだ。
僕たちは不当に利得を得た人間を激しく憎むように出来ている。
進化心理学や認知科学では、人間の脳は裏切り者の発見が目的である場合は極めて論理的に作動することや、裏切り者への報復に快感を得るように出来ていることが実験的に確認されている。
ヒトの進化適応環境である新石器時代後期には、人類は血縁関係による50人程度の集団(バンド)で生活していたという。
50人の集団で行う資源の分配は基本的にゼロサムだと考えられる。
プラスサムが生まれるようなイノベーションが起きるにはこの集団は小さすぎるのだ。
このゼロサム環境下では、不当な利得を得た人間を検知し是正・排除する仕組みを持つ者が生き残った。

一方、現代では、人間は様々な属性によって切り分けられ、一人の人間が多くの集団やカテゴリに属している
(職場や家族などの集団内での立場、職業、世代、ライフスタイル、消費性向、趣味、興味関心のある事柄などなど)
同じカテゴリに属する他者と面識がなくても、ステレオタイプや統計が所属意識を形成する。
そして、新石器時代には無かったであろうことだが、現代では所属集団同士が利益配分を巡って争う。
低学歴と高学歴、高収入と低収入、資産家と貧乏人、障害者と健常者、老人と現役世代
自分の持つ属性と他者が持つ属性の間の利益分配が問題になるたびに、僕達の『裏切り者発見装置』はせわしなく動いているのかもしれない。



  • 働く
  • 休む
  • 辞める
  • 死ぬ

朝起きた時に今日の行動を考える。
私が普段思い浮かべている選択肢は上に挙げた4つだ。
だいたいはこの通りのオーダーで、上の選択肢がNGの時は下の選択肢を検討することになる。
働けないなら休む、休んでも辛いなら辞める。
さらにどうしようもなくなっても死ぬという選択肢がある。

通常は、死ぬことに比べればそれ以外の「働く」「休む」「辞める」の方が容易だ。
だが、「死ぬ」という選択肢が一番上に来てしまうこともある。
(その都度NGを出して来たから今この文章を書けている。) 
坂口恭平は『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動なので、その時は何もしないで休む」という旨のことを言っている。
関連記事:誰かに「生きろ」っていうのは「死ね」っていうのと同じくらい暴力的だと感じる
これはとても素敵な考え方だ。
だけど、「死ぬ」ことは自分ひとりでも出来るため、状況によっては純然たる事実として他の選択肢よりも容易なのだと思う。

「働く」ことは辛い。
私はこれまで、結構自分の望むような仕事をして来たのだけれど、どれも楽しみを見出だせなかった。
正確には楽しい部分もあるのだが、上司や同僚や他部署の人や社外の関係者と一緒に働くしんどさが、それをスポイルしてしまう
通勤して事務所に行き、多くの人がいるところで働くというだけで疲れてしまう。
他人が関わると興味があったことでも辛くなってしまうことがある。 

「休む」ためには会社に一報を入れないといけない。
実はこれは社会常識という無根拠な規律づけだ。
連絡を入れないことによる不利益と比較衡量してなお連絡することが辛いなら、無断で休めばいい。
ただ、僕たちは無断で欠席したり欠勤するのはいけないことだと子供の頃から刷り込まれてきた
生政治 の担い手である学校という装置は、工場労働者に求められた規律を現在でも人々に埋め込み続けている。

「辞める」ための手続きもそれなりに面倒くさい。
私はフルタイムの仕事を2回辞めたことがあるが、いずれも以下のような流れだった。
最初に直属の上司に辞意を伝える。
所属長と役員まで伝わったら退職日を決めて退職届を提出する。
この過程で、翻意を促されることもあるし、退職日について両者の意見をすり合わせたりする。
ちなみに、病気で長期間療養する時も「辞める」時の手続きに近かった。
すなわち、レポーティングラインの人々に伝えて、日程を調整して、紙を提出する、という流れだ。
また、辞める時は家族への説明もかなりの労力を要する。
無職になることへの批判は容易に想像できるし、転職の場合であっても風当たりが強い場合が多いのではないだろうか。

僕たちは、働くことも、休むことも、辞めることも自分ひとりでは出来ない。
それに対して、死ぬことは自分ひとりで出来る。
(正確に言うと、死んだ後は遺族が役所や金融機関やインフラに対して手続きをしないといけないが、当人はそのことを考える必要はない。)
辛いときほど、一人で実行できる選択肢を容易に感じる。
だから、追い詰められれば追い詰められるほど「死ぬ」という選択肢の順番が上に来てしまう。
(あるいは坂口さんはここまで思い詰めてしまう状況を「脳の誤作動」と言っているのかもしれない)

多くの人は毎日の選択肢の中に『死ぬ』という選択肢は無いようだ。
分かってくれそうな人でも「朝起きてしようと思うことに『死ぬこと』がある」と言うと驚かれる。
他人と一緒に「働く」ことがそこまで嫌いではない人が多い。
また会社を辞めるにしても自分ほど周りへの説明を気にしてナーバスになる人は少ない。

では、一度頭のなかに『死ぬ』という選択肢が生まれると、それが頭の中から無くなる日は来るのだろうか。
永田カビさんがレズ風俗レポの 後日談で「ずっと頭の中にあった『死ぬ』という選択肢が久しぶりになくなった」という旨のことを書いていたので、きっかけがあれば解消されるのかもしれない。
ただ、新作を読むと今でも結構しんどそうなので、一度『死ぬ』という選択肢が出来てしまうと、やっぱりそう簡単には無くならないのかもしれないとも思う。

アルコール依存症の不可逆性についてよく言われる例えがある。
「アルコール依存症は進行性の不治の病です。たくあんが大根に戻らないのと一緒です。」
『死ぬ』という選択肢がある状態もこれに近いのではないか、というのが私の今の持論だ。



 

残酷さに目を向けることが救いになるなんて、昔は思いもよらなかった。

「ぼくたちは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされてはいるわけではない」

進化心理学という言葉は、橘玲の本で知った。
同書は、人間は自ら変わることが出来るという『自己啓発』の思想に対する橘の疑問からスタートし、生物学、心理学、社会学の理論を紹介しながら、「人は簡単には変われない、だから開かれた世界に自分の居心地のいい場所を探すのだ」という結論に至る。

進化心理学について

進化心理学は1970年代頃から研究され始めた新しい学問分野だ。
その名の通り、人間の心の動きを、それが進化の過程でどのように発生したのかというアプローチで解き明かそうとする。
ダーウィンが『種の起源』を出版したのは1859年なので、進化論のアプローチが人間心理に適用されるまでには相応に時間がかかっている。
これは、1950年以降の分子生物学の発展を待つ必要があったからだとか、学問間のセクショナリズムが原因であるとか言われている。

生物としての人間の歴史を遡ると、最初期の人類である猿人が登場したのは現在から500万年前、そこからジャワ原人やネアンデルタール人登場し、50万年前にかけてホモ・サピエンスが現れたといわれている。
一方、文明の端緒となる食料生産が始まったのは今から1万年前だ。
この1万年という期間は、生物の種が変化するにはあまりにも短い
ヒトは、定住生活よりも狩猟採集生活をしていた期間の方が圧倒的に長いのだ。
従って、ヒトの脳は狩猟採集時代に最適化された状態から変化していないという。
冒頭の橘の言葉は、「現代人は狩猟採集時代に最適化された脳を持ちながら現代を生きる矛盾を抱えた存在である」ということを述べたものだ。

生き難さの原因を考える上で進化心理学は強力な指針になると思う。

ヒトはストレスを生死とつなげて考える

例えば、承認欲求は狩猟採集時代の生活を想像することで説明できる。
狩猟採集時代のヒトのオスにとって、職業選択は命がけの選択だった。
自分の得意な分野(体が屈強なので前線で戦う、手先が器用なので罠や武器を作る、空間認知に優れるので猟場からベースまでの先導をする)を仲間に認められ、それを仕事にしないと、自分と仲間が死ぬリスクが高まる。
いくら手先が器用でもそれを仲間に認められないと、体が丈夫ではなくても前線で戦う役目を与えられてしまうかもしれない。
私たちは、職業選択や仕事上の評価について生死をかけるほど悩む素養を、ある程度生まれながらに持っているのだ。

ここから先は私の考えたことになるのだが、現代人は恐怖やストレスを実態より過大に受け止めるようにできているのではないかと思う。
狩猟採集時代は、恐怖やストレスのほとんどが死に直結するものだった。
毒蛇や肉食獣のような外敵はもちろん、上述の能力の承認や群れの規律を乱す個体の排除といった集団内のイシューも当時は生死を分ける問題だった。
一方、現代では、恐怖やストレスの原因そのものが生命を脅かすことは少ない。
都市で細長い物体に驚いてもそれが毒蛇である可能性は限りなく低いし、仕事で失敗しても命を失うことはない
(もちろん警察官や消防士は殉職する可能性があるが、狩猟採集時代は全員がそれ以上の死亡リスクを抱えており、職業選択の自由度は圧倒的に低かった)
しかし、私達の心は、集団内の問題が生死を分けていた時代を覚えている
それゆえに認知の歪みが生じ、抑うつ状態を引き起こすのではないだろうか。

多様性と標準とのズレ

もう一つ、純粋な進化心理学の話ではなく、インスパイアされて私が考えた話をさせてほしい。
私たちはヒトという種の特徴を持っているが、その一方で、生物は同一種の中でも多様性を持っている
多様性は環境の変化に適応し、種が存続するための大切なポイントだ。
しかし、 群れとしての最適戦略である多様性は、必然的に群れの中に標準から外れた個体を作り出す。
例えば、不安の感じやすさには個人差があるが、分布を取れば「危険に対する感性が欠如した人」と「過度に不安を感じやすい人」を左右のテールにおいた釣鐘型になるだろう。
そして、国家や社会の単位が大きくなった現在では、分布の中心(標準)から外れることが生き難さにつながりやすいのではないだろうか。
例えば、制度や規範が標準的な個体が快適なようにデザインされる。
また観点は異なるが、与えられる選択肢と社会の過大は世代により大きく変わるにも関わらず、前世代の標準を押し付ける圧力が働くこともストレスになる。

2017年1-3月期に「けものフレンズ」というアニメが大ヒットした。
私はネットで話題になってから見たのだが、急展開の11話から12話(最終話)までは放送が待ち遠しくなるくらいはまった。
最終話で「群れとしての我々の強さを見せるのです!」と言い、みんなが協力するシーンがある。
「フレンズによって得意なことは違うから」「けものはいてものけものはいない」といったこれまでの象徴的な言葉が思い浮かんだ。
多様性に奉仕すれば、種だけでなく私達個人にも多様性が見返りを与えてくれることがあるのかもしれない。
もちろん、人間の社会はジャパリパーク(けものフレンズの舞台)と比べるとだいぶ厳しい
我々の社会は、分布の中心から外れれば生き難さを感じるように出来ている。
そして、私達の大きな脳みそは、分布の中心に近ければ近いで、己の凡庸さを嘆くように出来ている。

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進化心理学の考え方は、ともすれば決定論的に響いてしまい、残酷で無慈悲だと受け止める人もいる。
ただ、私は、自分の辛さを自分から切り離すための手段として、この考え方は有用だと思った。
ヒトという種は葛藤を内包した存在なので、僕達の生き難さは全てが自分の責任ではない。
個人の資質が標準から外れていると生き難いのだが、それは種の存続のための多様性の範疇なのだ。
そして、おそらくそこには、原因はあるが目的は無い。
私はこの考え方でけっこう楽になった。




上の「いきづらさはどこから来るか」の方が読みやすいけれど、その分内容も絞ってあります。
ただ、生き難さにフォーカスしたトピックでこちらでしか触れられていないものもあるので、惹かれるタイトルの方から読めば良いと思います。
私は「いきづらさ~」→「だまされ上手が~」の順に読みました。
本文で書いた承認と職業選択の例は本書からの引用です。


英国の研究者の書いた入門書。
上の新書2冊の方が面白かったですが、本書には「心の病を進化から説明する」(第6章)という興味深いトピックがあります。
支配的な理論はまだ無いようなのですが、包括適応度説(血縁度の高い個体(兄弟姉妹など)を生存させるために自分を死に至らしめるメカニズムがあるとする説)は背筋がゾクッとしました。


冒頭で紹介した本。橘さんの著書でいちばん好きです。



キャラクターデザインに反して、ポスト・カタストロフィ的な伏線が随所に張り巡らされており、続きが気になるストーリーでした。
また、ヒトも含めた動物の特性の描写が巧みでした。

昨年の末くらいにデンマークの心理療法士が書いた『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』(著者:イルセ・サン、邦訳:枇谷玲子、出版:ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本を読んだ。
HSP(Highly Sensitive Person、非常に敏感な人)という概念について説明して、HSPの特徴や陥りがちな悩みと対処法について述べられている。
ざっくり分けると、人間の5人に1人がHSPに該当するとのことだ。

冒頭にHSPのチェックテストがあり、60点以上の場合はHSPの可能性が高いとするテスト(-52点~140点でスコアが出る)で、私は73点だった。
設問を幾つか紹介すると、「音や匂いに敏感」「人といると疲れる」「一人でも楽しめる」「誰かが怒っているとそれが自分に向いていなくてもストレスを感じる」等には当てはまったが、「暴力シーンが苦手」等の項目は当てはまらなかった。
(『時計仕掛けのオレンジ』の浮浪者や作家をフィリーするシーンは大好きだ。)
本全体でも、自分に当てはまる内容とそうでないものがあったが、「社会は鈍感でタフな人間の価値観で作られており、繊細さなどが過小評価されている」という指摘には救われた気がした。

考えてみれば、昔から悲しい物語が苦手だった
HSPの気質がある人間としては、登場人物の心を推し量って必要以上に共感してしまうのかもしれない。
悲しい物語の中でも、理不尽に襲いかかる暴力に対して助けが差し伸べられないような話を特に苦手としていた。
例えば
無実の罪で罰せられる
自分や愛するものが被害を受けたが加害者が罰せられない
理由なく悪意の標的になる
といったものは続きを見るのが辛くなってしまう。

橘玲が「心は社会的な動物である人間が群れに適応して子孫を残すためのシミュレーション装置だ」という旨のことを書いていた。
群れに適合して生きるために他人の感情や思考をシミュレートする機構が心だとすると、共感性と繊細さに優れた人間は有利な道具を持っているとも言える。
実際、自分が折衝や調整に長けていると感じたことがあるし、それが評価につながった経験もある。
だが、それとは裏腹に心は疲れていた。
シミュレートした他者の感情や主張に、押しつぶされそうになる
ひたすらに放っておいて欲しいと思うようになるのだ。

『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』では、HSPは生まれもった気質であるということが書かれていた。
ただ、私はこれには結構後天的な要因も作用しているのではないかと思った。
逆説的だが、人間不信や他者への恐れが強い人間ほど、敏感な心を持ち、他者の顔色をうかがうようになるのではないだろうか。
 
 

自分は映画を見たりを読んだりするのにつけてもケチだと思うことがある。
ここでいうケチとは、「作品の内容を無駄にせず全てを咀嚼したいと考えている」くらいの意味だ。


昔から、映画を見るのが苦手だった。
2時間ずっとスクリーンに集中していなくてはならないことに疲れるのだ。
トイレに離席したりふと画面から注意をそらした時にとても重要なシーンが流れ、自分がそれを見逃すことを恐れている。
その1シーンを見逃したばかりに、その映画の全てが台無しになってしまうことを恐れている。
それゆえ、どれほど楽しみにして見に行った映画であっても、途中からは開始からどれくらい時間が経ったかを確認し、あとどれくらいで終幕かを気にしている。
これは映画館だけに限らない。
レンタルビデオを借りるときも、果たして自分が最後まで集中力を途切れさせずに見られるか、またそれだけの価値があるかを気にして、なかなか借りられない。
Amazonのプライムビデオでも、気になる映画があるとプレイリストに加えるのだが、見るだけの気力が沸かず、ついぞ見ないままだ。

本を読むのもそうだ。
子供の頃から本を読むのは好きだったが、苦手だった。
一度出てきた内容を忘れてしまい、読み進めていくうちに話の展開や論理構造についていけなくなることを恐れている。
重要そうな箇所を振り返り易いと安心するので、鉛筆で印を付けながら読む。
もちろん、試験勉強の時は要点以外は流して、その分演習の時間を確保するようにしていた(さもなければ悲惨な結果になる)。
また、仕事で読む文章については、多くの場合は要点はどこかを探しながら走り読みをして対処している(さもなければ早くお家に帰れない)。
ただ、自分が趣味で買った本は、小説でも実用書でも吝嗇に読んでしまう

率直に言って、映画や本に対するこのような姿勢は、集中の代価としてもたらされる疲労により作品の良さが損なわれていると思う。
1作品1作品に労力がかかるので、見る/読むことができる作品の数も制限される。
そもそも、全てを理解しないと映画や本の良さが全てスポイルされるとい考えは、認知の歪みだ(類型としては「全か一かの思考」「完璧主義」)。

私が「本や映画の全てを理解したい」という強迫に駆られるのは、『自分の苦悩の答えを求めて作品に接している』ためだと考えている。
人間不信、労働苦、家族の呪縛、生きる意味に対する答えを本や映画の中に探している。
それらの苦悩は自分にとって一大事なので、集中して答えを探す必要があるのだ。
フーコーの入門書やアダルトチルドレンの解説書のようなものだけでなく、太宰やモームの小説の中にも答えを探している。
ファイト・クラブやエヴァンゲリオンの中にも探している。
苦悩が減れば接し方も変わるのかもしれないが、現代人が生きる限り、苦悩は決して減らないだろう。
「答え」を求めてする読書は楽しめない。
でも、どこにも答えが書いてないのなら、私は果たして本を読むだろうか。


『電車で老人に席を譲るべきと考える人の割合が減っている。
特に、老人に席を譲ろうとしたのに相手に断られた経験があるので譲りたくなくなったという意見の人がかなり多い 。』
とのことだ。

これを見て反射的に思い出したのが以下のコピペだ。
リンク: Buzz Media「電車で席を奪い取ろうとする老人に対し、若者が放った言葉が突き刺さる!」
事実か創作かは分からないがあり得そうな話である。

私はそもそもこういうシチュエーションが大嫌いなので、電車では滅多に座らない
そして、30分以上乗車する場合は極力座席指定できる移動手段を使うことにしている。

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ダイヤモンドオンラインの記事は、長寿命化により現代の高齢者が昔の同年齢の人々よりも若く元気になったため、すれ違いが起こったのだと考えられる。
ただ、私はこの「公共交通機関で老人に席を譲る」という行動様態がずっと疑問だった。
普通列車では、老人もそれ以外の乗客も同一の運賃を払って同一のサービスを購入しているのに、老人が特別扱いされるのはおかしい。

国家国民にそのような対応を求めるのであれば、法律に定めをおくべきだ。
交通機関旅客にそのような対応を求めるのであれば、約款に定めをおくべきだ。
ざっと見た限りではそのように求める法律は無いし、JR東日本の旅客営業規則を見てもそのような定めは無かった。
そして、老人他の乗客にそのような対応を求めるのであれば、あくまで双方の合意があるべきだ。
合意は「500円支払って席を譲り受ける」という双務契約であっても良いだろう。

通勤時間が長い方々は、電車で座るために相応の苦労をされているのではないか。
「割高な始発駅に家を買い、2本ほど見送って乗車する。」
「長く乗らなそうな人の前に立ち、駅に着くたびに動向を注視する。」
そのようにして得た座席を、後から乗り込んできた老人に差し出さなくてはいけない根拠は何か

「老人は足元が弱っていたりして危険だから」
「年長者は敬うものだから」
「老人が今の日本を作ったから」
同意できる意見も同意できない意見もあるが、これらはいずれも同一の運賃に対して待遇が異なることの説明ではない。
ゆえに、このようなトピックを見るたびにいつももやもやした気分になる。

ちなみに、この「老人座席問題」については、知恵袋でトピックがいくつか建っている。
残念ながら、疑問を投げかけたトピ主が人格攻撃されるような展開が多い
余談だが、知恵袋はいつも読んでいて辛い気分になる。
「釣り人」「誰かを叩きたい人」「暇人」「何らかの理由でGoogleを使えない人」が作っているコミュニティだからだろうか。

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自動車に乗ればピタピタの格好をした自転車乗りが車道をふらふら走っていて危ない。
自転車に乗れば広がって歩く老人やスマホを見ながら歩いているガキどもが危ない。
電車に乗れば老人に席を奪われる。
やはり移動は徒歩(かち)に限る。

えっ、徒歩でもヘッドフォンしてスマホをいじった中高生の自転車や、アクセルとブレーキを踏み間違えた老人の車が突っ込んでくるかもしれないって?
生き難いねぇ。


 

誰かに向かって「生きろ」と言うのは「死ね」と言うのと同じくらい暴力的だと思う。
辛いことがあっても最悪死ねばよいというのは私にとって救いだからだ。

「親が悲しむから生きろ」とか
「友人が悲しむから生きろ」とか
「そんなことに負けてどうする、生きろ」とか
そのような一般的な助言をされるよりは「今が辛くても幸せでも死んだら全て終わりになる」と考える方が気楽で、逆説的だが生きることに肯定的になれる

「生きろ」と言われるのが苦痛に感じる理由は2つある。
1つは自分の瑕疵を責められているように感じるからだ。
「生きろ」と言われると、
「生きることに肯定的でなければならない」
「人生は幸福でなければならない」
というような価値観を押し付けられているような気分になる。
そのように考えられない自分は欠陥を負っており、それを克服しなければならないような焦燥に駆られる。

2つ目は、生きることに肯定的になれない自分を惨めに感じるからだ。
世間の多くの人間は死ぬよりも生きる方が良いと考える。
すなわち彼らは、生きることには価値があり、少なからず幸福を感じているということだ。
それと比べる自分が惨めに思えるのだ。

とはいえ、死は不可逆的だから実際に死んでしまうと取り返しがつかない。
(時間が巻き戻らない以上、本当は生も不可逆的なのかもしれないけれど。)
坂口恭平『現実脱出論』で、「死にたいと思うのは脳の誤作動だ」と言っている。
希死念慮に対して感情的に怒ったり悲しんだりすると、本当に死んでしまう。
部品が摩耗して休止か交換を訴えているのだと考えて、機械が故障したときのように、電源を止めて故障を観察すればよい。
そのように述べている。
なぜ生きなければいけないのかという理由は語らないが、この考え方は押し付けがましくなくて好きだ。


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