帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

タグ:進化心理学

幸せそうにしている人間が憎くて仕方がないと思う時がある。
世襲財産を持つ者、幸福な家庭の出身者、集団の中にいても疲れない人間
お前らが幸福なせいで俺が不幸なのだ、と。

プラスサムとゼロサム

「自分の不遇の原因は別の誰かが利益を得ているからだ」という思考は様々な場面で見られる。
利得を得ているのが顔見知りであれば嫉妬や争いにつながる。
受益者と非受益者が階級や集団で区分される場合は社会運動や革命につながる。

とはいえ、常に他人の利得と自分の利得をつなげて考えている人はあまりいないだろう。
人間の中には、世界をゼロサム的に考える部分と、プラスサム的に考える部分がある。
例えば、余裕がある時のほうが世界をプラスサムで捉えやすいとのではないか。
また、人によってもゼロサム思考かプラスサム思考かという傾向の違いがあると思う。
私みたいに人間不信の人はゼロサム思考の人が多いのではないだろうか。

※プラスサムとゼロサムについて金融取引の例を出す。
例えば株式投資はプラスサムの取引だ。
自分の保有株が購入価格よりも高く売却出来て利益が出たとしても、買い手が必ず損をするわけではない。
買い手はその値段には投資妙味があると判断したからこそその値段で購入したわけで、それ以降の値上がりで利益をあげられる可能性がある。
すなわち、皆がハッピーになれる可能性があるのがプラスサム・ゲームの世界だ。
これに対してデリバティブはゼロサムの取引だ。
先物もオプションも買い手の利益は売り手の損失に等しいし、逆の場合も然りだ。
ゼロサム・ゲームの世界では、誰かの利得は必ず別の誰かの損失になる。
業者の手数料がかかる分だけマイナスサムとも言える。
例えば、くじは業者の手数料がべらぼうに高いマイナスサム・ゲームだ。

裏切り者発見装置と所属の多層化

私は物事をかなりゼロサム思考で考えてしまう。
老人や弱者のセーフティネットのために社会保障費と税金を奪われるから、自分はいつまでも労働から解放されない。
多数派である集団が苦ではない人間が生きやすい社会を作っているから、一人になりたい自分は生き難い。
幸福な家庭の出身者が無遠慮に自分の価値観を押し付けるから、家族に複雑な感情を持っている自分は本音を話せない。

最近考えたのが、ゼロサム思考は脳の裏切り者発見装置の誤作動ではないかということだ。
僕たちは不当に利得を得た人間を激しく憎むように出来ている。
進化心理学や認知科学では、人間の脳は裏切り者の発見が目的である場合は極めて論理的に作動することや、裏切り者への報復に快感を得るように出来ていることが実験的に確認されている。
ヒトの進化適応環境である新石器時代後期には、人類は血縁関係による50人程度の集団(バンド)で生活していたという。
50人の集団で行う資源の分配は基本的にゼロサムだと考えられる。
プラスサムが生まれるようなイノベーションが起きるにはこの集団は小さすぎるのだ。
このゼロサム環境下では、不当な利得を得た人間を検知し是正・排除する仕組みを持つ者が生き残った。

一方、現代では、人間は様々な属性によって切り分けられ、一人の人間が多くの集団やカテゴリに属している
(職場や家族などの集団内での立場、職業、世代、ライフスタイル、消費性向、趣味、興味関心のある事柄などなど)
同じカテゴリに属する他者と面識がなくても、ステレオタイプや統計が所属意識を形成する。
そして、新石器時代には無かったであろうことだが、現代では所属集団同士が利益配分を巡って争う。
低学歴と高学歴、高収入と低収入、資産家と貧乏人、障害者と健常者、老人と現役世代
自分の持つ属性と他者が持つ属性の間の利益分配が問題になるたびに、僕達の『裏切り者発見装置』はせわしなく動いているのかもしれない。


命の大切さを語る時に「何億匹の精子の中から選ばれて生まれるのだから一人一人の人間が大切なのだ」というような言葉が使われることがある。
私の印象に残っているのは、小学校の時に担任だったヒステリックな女の教員だ。
当時はオバサン扱いしていたが、今の私と同じくらいの年齢だったように思う。
私のいたクラスには知能が少し遅れている児童がいて、彼をからかうような言動を取るクラスメートが何人かいた。
それが問題になって、よくある感じで理不尽にもクラス全体がお説教を食らう羽目になったのだが、その時に上に挙げたような話をしていた。
当時の私は流石にまだ反出生主義ではなかったけど「そんなんただの生物学的な事実なんだから理由になってないよな??」と子供ながらに違和感を感じていた。
関連記事:生まれてこなければ良かった その2 反出生主義 
「精子がたくさんいても受精に至るのは一匹だけ」というのはロマンティックでも奇跡的でもなんでもないただの事実だ。

配偶子の大きさ

進化心理学や進化生物学の本だと、だいたい一章を使って男女の性差について述べている。
中でもドーキンスの『利己的な遺伝子』の説明は身も蓋もなくて分かりやすい。
利己的な遺伝子 <増補新装版> [単行本]
生物は精子や卵子のような配偶子を減数分裂で作る。
進化の歴史の中で、配偶子の形状については2つの戦略が生き残った。
エネルギーを費やして大きな配偶子を作る戦略と、自分は小型の配偶子を大量に作り別の個体が作った大きな配偶子と結合させる戦略だ。
後者の寄生的な戦略を取った個体の末裔がオスということになる。
メスは自分の配偶子である卵子に多大なエネルギーを投資しているので、生まれた子供と自分をオスに守らせるよう行動する。
反対にオスは、多くのメスと交尾して多くの子孫を残すのが遺伝子のビークルとしての最適戦略だ。
ただし、オスは子供が本当に自分の子供なのか(DNA検査に依らない限り)通常は確信できない。
寄生的な配偶子を持った代償として、自分以外のオスの子供を育てさせられるという最悪のシナリオが起こりうるようになった。
子供が本当に自分の子供か悩む父親の姿はフィクションでもリアルでも相応に見られるが、これは究極的には配偶子の形状の相違から生まれる。
いずれにせよ、精子と卵子の相違はロマンティックでもなんでもない戦略上の優位性により存在するのだ。

精子は本当に競っているか

精子観察キットを購入して自分の精子を見たという人がこんなことを言っていた。
「俺の精子あんまりやる気が無いみたいなんだ。半分くらいしか動いてないんだよなぁ・・・。」
これは多分彼の精子だけの問題ではないだろう。
WHO(世界保健機関)が精液検査ラボマニュアルというものを定めている。
同マニュアルでは精子検査で見るべき項目とその基準値が示されており、主要な基準をクリアすれば正常精液ということになる。
その中に、運動精子50%以上、前進運動精子25%以上という検査項目がある。
簡単に言うと、前者は『早く動いている精子とゆっくり動いている精子の合計が50%』という基準で、後者は『早く動いている精子が25%以上』という基準だ。
リンク:日本産科婦人科学会の会報誌
早く動いてる精子が4分の1あれば正常というのは一般的な感覚より少ないのではないだろうか。
残りの4分の3くらいは最初からレースに参加していないのだ。
なんと懸命なことだろう。
生まれる前から生きるつらさを知っていてレースから降りたのではないかという想像をしてしまう。
 


そんなわけで、「生まれてきた人間は数億匹の精子の中でレースに勝った選ばれた存在だ」というようなレトリックは大変に疑わしい。

余談になるが、進化心理学の記事で挙げた明治大学の石川幹人教授の本に、精子の量についての面白い話があった。
生きづらさはどこから来るか―進化心理学で考える (ちくまプリマー新書) [新書] 
関連記事:『生きるのがつらい』療養論4 僕たちは種としても個としてもズレている
霊長類の「体のサイズ」に対する「睾丸の大きさ」と「ペニスの長さ」の比率を比較すると興味深い傾向が見て取れる。
チンパンジーの睾丸は体に比してとても大きい。
彼らは乱婚をするので大量に精子を作る個体が子孫を残しやすいのだ。
ゴリラはムキムキの屈強な体躯をしているが、その割に睾丸とペニスの大きさは控えめだ。
彼等は1頭の雄が複数の雌を引き連れたハーレムを作る。
ゆえに性器の大きさよりも雄の間の闘争で勝つための強靭な肉体が必要なのだという。
ちなみにヒトは体の大きさに対するペニスのサイズの比率が他の霊長類よりもダントツで大きいそうだ。
オチは是非本で読んでみてください(石川先生の考察がちょっと書いてあるだけですが)。 


 

残酷さに目を向けることが救いになるなんて、昔は思いもよらなかった。

「ぼくたちは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされてはいるわけではない」

進化心理学という言葉は、橘玲の本で知った。
同書は、人間は自ら変わることが出来るという『自己啓発』の思想に対する橘の疑問からスタートし、生物学、心理学、社会学の理論を紹介しながら、「人は簡単には変われない、だから開かれた世界に自分の居心地のいい場所を探すのだ」という結論に至る。

進化心理学について

進化心理学は1970年代頃から研究され始めた新しい学問分野だ。
その名の通り、人間の心の動きを、それが進化の過程でどのように発生したのかというアプローチで解き明かそうとする。
ダーウィンが『種の起源』を出版したのは1859年なので、進化論のアプローチが人間心理に適用されるまでには相応に時間がかかっている。
これは、1950年以降の分子生物学の発展を待つ必要があったからだとか、学問間のセクショナリズムが原因であるとか言われている。

生物としての人間の歴史を遡ると、最初期の人類である猿人が登場したのは現在から500万年前、そこからジャワ原人やネアンデルタール人登場し、50万年前にかけてホモ・サピエンスが現れたといわれている。
一方、文明の端緒となる食料生産が始まったのは今から1万年前だ。
この1万年という期間は、生物の種が変化するにはあまりにも短い
ヒトは、定住生活よりも狩猟採集生活をしていた期間の方が圧倒的に長いのだ。
従って、ヒトの脳は狩猟採集時代に最適化された状態から変化していないという。
冒頭の橘の言葉は、「現代人は狩猟採集時代に最適化された脳を持ちながら現代を生きる矛盾を抱えた存在である」ということを述べたものだ。

生き難さの原因を考える上で進化心理学は強力な指針になると思う。

ヒトはストレスを生死とつなげて考える

例えば、承認欲求は狩猟採集時代の生活を想像することで説明できる。
狩猟採集時代のヒトのオスにとって、職業選択は命がけの選択だった。
自分の得意な分野(体が屈強なので前線で戦う、手先が器用なので罠や武器を作る、空間認知に優れるので猟場からベースまでの先導をする)を仲間に認められ、それを仕事にしないと、自分と仲間が死ぬリスクが高まる。
いくら手先が器用でもそれを仲間に認められないと、体が丈夫ではなくても前線で戦う役目を与えられてしまうかもしれない。
私たちは、職業選択や仕事上の評価について生死をかけるほど悩む素養を、ある程度生まれながらに持っているのだ。

ここから先は私の考えたことになるのだが、現代人は恐怖やストレスを実態より過大に受け止めるようにできているのではないかと思う。
狩猟採集時代は、恐怖やストレスのほとんどが死に直結するものだった。
毒蛇や肉食獣のような外敵はもちろん、上述の能力の承認や群れの規律を乱す個体の排除といった集団内のイシューも当時は生死を分ける問題だった。
一方、現代では、恐怖やストレスの原因そのものが生命を脅かすことは少ない。
都市で細長い物体に驚いてもそれが毒蛇である可能性は限りなく低いし、仕事で失敗しても命を失うことはない
(もちろん警察官や消防士は殉職する可能性があるが、狩猟採集時代は全員がそれ以上の死亡リスクを抱えており、職業選択の自由度は圧倒的に低かった)
しかし、私達の心は、集団内の問題が生死を分けていた時代を覚えている
それゆえに認知の歪みが生じ、抑うつ状態を引き起こすのではないだろうか。

多様性と標準とのズレ

もう一つ、純粋な進化心理学の話ではなく、インスパイアされて私が考えた話をさせてほしい。
私たちはヒトという種の特徴を持っているが、その一方で、生物は同一種の中でも多様性を持っている
多様性は環境の変化に適応し、種が存続するための大切なポイントだ。
しかし、 群れとしての最適戦略である多様性は、必然的に群れの中に標準から外れた個体を作り出す。
例えば、不安の感じやすさには個人差があるが、分布を取れば「危険に対する感性が欠如した人」と「過度に不安を感じやすい人」を左右のテールにおいた釣鐘型になるだろう。
そして、国家や社会の単位が大きくなった現在では、分布の中心(標準)から外れることが生き難さにつながりやすいのではないだろうか。
例えば、制度や規範が標準的な個体が快適なようにデザインされる。
また観点は異なるが、与えられる選択肢と社会の過大は世代により大きく変わるにも関わらず、前世代の標準を押し付ける圧力が働くこともストレスになる。

2017年1-3月期に「けものフレンズ」というアニメが大ヒットした。
私はネットで話題になってから見たのだが、急展開の11話から12話(最終話)までは放送が待ち遠しくなるくらいはまった。
最終話で「群れとしての我々の強さを見せるのです!」と言い、みんなが協力するシーンがある。
「フレンズによって得意なことは違うから」「けものはいてものけものはいない」といったこれまでの象徴的な言葉が思い浮かんだ。
多様性に奉仕すれば、種だけでなく私達個人にも多様性が見返りを与えてくれることがあるのかもしれない。
もちろん、人間の社会はジャパリパーク(けものフレンズの舞台)と比べるとだいぶ厳しい
我々の社会は、分布の中心から外れれば生き難さを感じるように出来ている。
そして、私達の大きな脳みそは、分布の中心に近ければ近いで、己の凡庸さを嘆くように出来ている。

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進化心理学の考え方は、ともすれば決定論的に響いてしまい、残酷で無慈悲だと受け止める人もいる。
ただ、私は、自分の辛さを自分から切り離すための手段として、この考え方は有用だと思った。
ヒトという種は葛藤を内包した存在なので、僕達の生き難さは全てが自分の責任ではない。
個人の資質が標準から外れていると生き難いのだが、それは種の存続のための多様性の範疇なのだ。
そして、おそらくそこには、原因はあるが目的は無い。
私はこの考え方でけっこう楽になった。




上の「いきづらさはどこから来るか」の方が読みやすいけれど、その分内容も絞ってあります。
ただ、生き難さにフォーカスしたトピックでこちらでしか触れられていないものもあるので、惹かれるタイトルの方から読めば良いと思います。
私は「いきづらさ~」→「だまされ上手が~」の順に読みました。
本文で書いた承認と職業選択の例は本書からの引用です。


英国の研究者の書いた入門書。
上の新書2冊の方が面白かったですが、本書には「心の病を進化から説明する」(第6章)という興味深いトピックがあります。
支配的な理論はまだ無いようなのですが、包括適応度説(血縁度の高い個体(兄弟姉妹など)を生存させるために自分を死に至らしめるメカニズムがあるとする説)は背筋がゾクッとしました。


冒頭で紹介した本。橘さんの著書でいちばん好きです。



キャラクターデザインに反して、ポスト・カタストロフィ的な伏線が随所に張り巡らされており、続きが気になるストーリーでした。
また、ヒトも含めた動物の特性の描写が巧みでした。

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