帰ってきたマイナス思考に自信ニキ

他人の言うことに流されたり傷ついたりしないで、自分の頭で考えて生きていきたい。

長寿命化

人手不足で賃金は上がらない、クオリティが下がる

少し前に、ウォール・ストリート・ジャーナル電子版で上手いタイトルだなぁと思う記事があった。
”賃金上昇という「神話」の終わり”
リンク:
WSJ電子版

金融緩和で資金はジャブジャブ、老人いっぱいで人手不足。
にも関わらず所得は増えない。
昇格して額面が増えても社会保障負担と税負担を差し引くとあんまり増えた気がしない。
働き方改革なんて言われているが、人を増やさないで労働時間を減らそうとすれば相当な労働強化になるだけだろう。
そんな状況なのに隣の部のジジイは暇そうにしていやがる。

そんな苛立ちを抱えた僕達のハートにグサッと来る。
グーグルニュースのピックアップ記事にあったら思わずクリックしてしまうだろう。
だが残念なことに有料会員限定記事だ!
Twitterや2ちゃんでは触りの部分だけ見て議論を展開する猛者もいる。
それだけ皆このヘッドラインには目を奪われるし、思うところがあるのだと思う。

どうして賃金が上がらない?

先日、記事の全文を読む機会があった。
記事の内容を踏まえて思ったことを書くと、賃金が上がらないポイントは大きく2つ。
1つは、物価が上がっていないこと。
賃金上昇=価格上昇+生産性上昇と考えると、インフレかイノベーションで賃金上昇をオフセット出来ないといけない。
2つ目は、人手不足で賃金が上がっているのは低所得者なので、マクロで見ると賃金上昇につながらないということ。
若年労働者や単純労働に就く外国人労働者の賃金が上がっても、30代や40代の労働者の賃金が年功序列で硬直的な状況では全体へのインパクトは小さい。
私は2つ目の視点が特に興味深いと思った。
確かに「賃金」と一口に言っても労働も労働者も多種多様だ。
自分には見えていない職種や関係ない人の賃金は上がっているのかもしれない。
ただし、熟練労働者を非熟練労働者に置き換える方向の変化は、全体としては(一時的であっても)労働力の質の低下になり、マイナスだという指摘もある。
また、人手不足による賃金上昇が発生しない層については、現行の賃金水準に不満があるのであれば、従前と同様雇用主を変えるか別の収入源を作る以外に所得を増やす方法は無い。

クオリティを下げるという選択をしているのではないか

ここからは記事の視座とは関係ない話だが、人手不足でも賃金を上げないがためにオリティが下がるという現象も起きていると思う。
都内のコンビニだと、深夜のバイトはだいたい外国人だ。
我が国はコンビニバイトをするためにビザは発給しないので、彼等は留学生か研修生か日本人の配偶者ということになる(ほんまかいな)。
東アジア系は以前から多かったが、ここ数年東南アジア系やインド系のスタッフが増えたように思う。
本当はどんな綴りなのだろうと興味を引くような名前が、平仮名でネームプレートに書かれていたりする。
日本人が避けるくらいなので、コンビニの労働はハードだ。
レジ打たなあかんし、品出しせなあかんし、宅配便の受付やコンビニ受取対応もせなあかんし、チケットの発券や収納代行もせなあかんし、自治体の粗大ごみ収集券や切手も売らなあかん。
煙草を銘柄で注文する客がいる(銘柄、ニコチンの強さ、ロング/ショート、ソフト/ボックスの区分がある極めて複雑な商品)し、過剰なサービスを求めてクレームつけてくるやつもいる。
こんなハードな接客業を言葉の壁がある外国人スタッフがやる以上、サービスのクオリティが下がるのは避けられない。
利ざやの薄い商売で客が偉そうにするのは大嫌いな私だが、同じ店で立て続けにEdyで頼んだのにSuicaで決済された時は思わず「勘弁してくれよ!」と叫んだ。

でも仕方がない。
我々は、値上げを受け入れてるよりも、安い金で最大限に物とサービスを買い叩く方を選んでいるのだから。

人間は不幸や老いには慣れることが出来る。でも心の傷が癒えないのはなぜ?

少し前に、行動経済学や認知科学に関する本をいくつか読んだ。
特に、ダニエル・カーネマンとダン・アリエリーが一般向けに書いた著作は、日常的なトピックと学問的な裏付けの双方が織り交ぜてあり、読み物としてとても面白かった。
(TEDに2人のプレゼンがあるので興味のある人はそちらもどうぞ。)

その中の一つであるアリエリーの『不合理だからうまくいく』の中に『順応』に関する章があった。
いわく、人間はたいていのことには慣れてしまうことが出来る。
例えば、以下のような事例が実験を交えつつ紹介されている。
・負傷により痛みを負った経験のある人間は、痛みに対する反応が鈍く、長時間痛みを我慢できる傾向にある。
・宝くじに当たった人と事故で重篤な障害を負った人について、当選or事故から1年後に人生の満足度を申告してもらうと、2人とも何も無かった人とあまり変わらない。

この、人間がいろいろなことに慣れてしまえるという現象は、私の実感にはかなりフィットする。
たぶん、カーネマンの本にあった『経験する自己』と『記憶する自己』の二面性と結構関係があるんじゃないかと思う。
(この二面性というのはざっくり言うと、人間が刻一刻と今この瞬間に感じていることと、事後的に思い出して感じることは異なるということだ。
そして僕たちの幸福と不幸の判断を行うのは後者の『記憶する自己』の方だ。)

老いにも不幸にも慣れてしまう

身内の老人が生き汚くて辟易するという話をいろんな人から聞く。
体に調子が悪いところがあれば、不安だ、死んでしまう、早く医者に行かなければと言い、家族を困らせる。
年寄りなのだから不調が出るのは仕方ないだろうに、それが我慢できない。
何をするでも無く、寝て、起きて、飯を食い、テレビを見て過ごす。
それだけの生活しかないのに、死ぬのが怖いらしい。
そういう身内がいる人と話すと、自分はあまり長生きせずに死にたいという意見で一致する。
ただ、このような意見を持っていても、いざ自分が老いた時に積極的に死ねる人間は多くないだろう。
50歳から一気に90歳になれば、死ぬ覚悟が出来る人も相応にいるかもしれない。
だが、徐々に老いるなかで、いつのまにか実行に移せないほど老いに慣れてしまう可能性は高い。

また、僕は自分は生きているだけでだいぶ辛いので、これ以上大きな荷物を持てば死んでしまうと思っている。
仕事をやめて貯蓄を取り崩しながら気ままに生きて、文無しになったら死にたいと夢見ている。
重病や障害が残るような怪我をしたら死のうと思って、なるべく人に迷惑をかけない死に方を考えていた。
(資産と契約の一覧を作り、可能な限り契約は解除したうえで、国有地で確実に死ぬというもの。)
でも、これらのことにも僕は慣れてしまうのかもしれない。

事故で凄惨な火傷を負った経験のあるアリエリーは、怪我や痛みへの順応は自分に有利に働く順応だとして、促進してその恩恵に預かるべきだと言う。
だけど、私は老いや不幸にも順応して人生が続いてしまうというのは、とても怖いことだと思う

では心の傷が癒えないのはなぜだろうか

私は幸福な家庭で育った人間が妬ましくて、そういった人間が「家族は良いものだ」とか「親を尊敬している」というようなことを無神経に言うのを聞くと、イライラして仕方がない。
関連記事:幸福な人間が憎い
こういう状態が30過ぎても続いているということは、少なくとも私はこの件には順応出来ていない
痛みや不幸には順応できても、心の傷には順応できない。
なぜだろうか?

一つ考えたのは、規範の存在他人の生活に関する情報が順応を阻むのではないかということだ。
幸福な家庭というイメージは、いろいろなところで出てくる。
学校では家族は大切にしろと教えられるし、家族愛をテーマにした本や映画が氾濫している。
そこでは、家族は助け合って、愛し合って、お互いの為を思って、感謝してやっていかなければいけないという規範が語られる。
また、街や観光地で目にする家族連れは、概ね楽しそうだ。
(機能不全家庭はそういうアクティビティをしないところが多いだろうから当然かもしれない。)
規範的で多数の人間が持っている幸福は、持っていない人間に惨めな思いにさせる。
それゆえ、慣れることが出来ず、いつまでも自分に無いものを基準に物事を考えてしまう。

とりあえずメディアとネットと都市の生活は、機能不全家庭の出身者が傷を癒やすには有害だということかもしれない。
隠遁したいなぁ。





著者はデューク大学教授で、それ以前にはMITのスローン経営大学院やメディアラボで教鞭をとっていた経験もある。本書より前に出した『予想通りに不合理』が主に消費行動を題材にしたものであったのに対し、本書は仕事や対人関係に関係する題材をメインにしている。
私の書いた本文と違って明るく軽妙な語り口で読みやすい。


カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞した認知心理学者
本書は行動経済学のトピックがだいたいカバーされており、実験の紹介も豊富だ。日本人の手による行動経済学の入門書も何冊か読んだが、本書と比べるとどれもイマイチだった。
本書を読んで「人間ってなんていい加減なんだろうと」感じて結構気分が軽くなりました。

献血にさようなら

私は5年前に献血をやめた。
以前は献血を結構していた。
手元に残してある献血カードを見ると、献血回数15回とある
足掛け10年程度、年に1回ペースでは献血していたことになる。
(昔は紙の「献血手帳」に履歴を記録する方式だったが、10年前くらいに「献血カード」になったと記憶している。)

献血をするようになったのは、高校時代の恩師(教員という職業だが尊敬に値する数少ない人物)が献血を100回以上している猛者だったのでその影響を受けたのが一番の理由だ。
あと、吉田秋生の『吉祥天女』という漫画で、ダークなヒロインの小夜子さん「女は血なんて怖くないのよ。毎月血を流すんだから。」というドスの効いたセリフを言っていたのが妙に頭に残っており、男も定期的に自分の血を見る必要があるな(?)というよくわからないことを考えていた。

血液検査の結果がフィードバックされるし、大きな献血センターなら菓子を食べながら漫画も読めるので、する側にもメリットがある。
また、上記の吉祥天女の理屈で血を流すのは生物に必要なことだとも考えていた。

社会貢献やボランティアは胡散臭いと感じるが、 就職活動のエントリーシートで「ボランティア等」の項目があれば一応「献血」と書いていた。
それなりに話のネタになった。
「献血は結構曲者で、血を抜いても大丈夫な人と駄目な人でそれなりに差があるんです。
友人の筋骨隆々のスポーツマンが、血を抜くと途端に気分が悪くなってしまったこともありました。
また、輸血を受けたことがある人や、2004年までに欧州の一部の国に半年以上滞在した人も献血出来ません。
献血出来ない人が相応にいる以上、出来る自分が定期的に協力するのは意味があることだと考えています。」
リクルーターや面接官と話す時はこんな殊勝なことを言っていた。
いい子ぶる訳ではなく、結構本心からこう思っていた。
うぶだったのだろう。


血液製剤の大部分が高齢者に使用されているという統計を見てから、私は献血をしなくなった。
私はこの統計を、赤十字のホームページで見た気がするのだが、今は載っていない。
多分、若者の献血離れが3年位前にニュースになった時に消されたんじゃないかと思う。
不都合な事実なのだろう。
公的なソースとしては、以下のリンク先の「平成27年輸血状況調査結果(概要)」の4ページ目を見てほしい。
「年代別では、50歳以上の患者への使用が全体の84.5%を占め、前年(84.3%)とほぼ同じである」との記載がある
病気になるのは年を取ってからの場合が多いので、至極当然の結果なのだが、こうして数字をみるとなかなかインパクトがあるのではないだろうか。
しかも、このワーディングはかなり恣意性を感じる。
どういうことかと言うと、(概要)ではない方のファイルの7ページ目を見ると内訳があるのだが、84.5%の内訳は、70歳以上:56.8%、60代: 18.5%、50代:9.2%であり、上の記述には70歳以上が過半であるということをぼやかそうという意図が感じられるのだ。
(仕事で書く文章だとこういうワーディングすることあるよね。)

輸血の用途は、私に献血をやめさせるだけの十分な衝撃を持った事実だった。
また、この数字を見たのが働くようになってからなので、生きていくことのしんどさを知って余裕がなくなっていたために尚更突き刺さった。
望んでもいないのに生きろと言われて、仕方なく自分の時間を売って生活費を稼ぐ。
そこから、高齢者への給付のために年金を払わされて、健康保険料を払えば半分は高齢者医療に吸い上げられる。
端的に言って、生きること、働くことで罰せられているような気がしていたのだ(今でもしている)。
こんなに生きるのがつらいのに、なぜ自分を罰しようとする人間を助けるようなことをするのか。

友人にこの話をしたら「昔みたいに売血にすれば良い」という意見があった。
もっともだと思う。
世代間の富の移転に資するし、外圧と偶然の賜物である現在の献血制度を守り続ける必要はない。
ただ、そうすると闇金ウシジマくんの鰐戸兄弟みたいに、ホームレスや無職者を集めて血を売らせる人達も出てくるだろうとも思う。
(ウシジマくんはこのエピソードやサラリーマンくんのあたりが一番面白かった。)

現役世代は非受益者であるという怒りがあるし、高齢世代は自分たちには当然権利があると考えている。
最終電車(※1)の過ぎ去ったホームで、私たちは奪い取る機会を伺い、奪い取られまいと警戒している。

まぁ今の私は抗鬱剤と安定剤を飲んでるから、献血しようと思っても門前払いされるんだけどね。

※1
「社会保障制度改革の最終列車」という概念がある。
50歳以上の有権者の割合が過半数を超えると、社会保障制度の見直しは不可能になるとい考え方だ。
財政の見直しのために年金制度、医療制度をスリム化しようとすると、大きな既得権を持っている高齢世代が反対するという構図だ。
ちょっと古いがIMFが2004年に各国の最終電車の時刻表に言及した。
英国:2040年
アメリカ、ドイツ、フランス:2015年
日本は2003年だ。
最終列車はかなり前に出発してしまった。

日本の世帯数の30年前との比較と若干の考察

先日、「親になる自信がない」「経済的に余裕がない」「仕事との両立が困難」などの理由で、子供はいらないと考える人が相当数いるという内容のネットの記事について思うところを書いた。

その中で、厚生労働省の国民生活基礎調査で、過去30年で「夫婦のみの世帯」の数が2倍以上に増えたことについて言及があった。
記事だと、子作りに消極的なカップルが増えたことがその一因だという話の運び方だった。
ただ私は、それも一因だとは思うが、30年というスパンで見るなら三世帯同居が一般的でなくなったことの影響のほうが大きいのではないかと、少々違和感があった。
調査の中身を見てみたので、興味があればご覧いただきたい。

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100年も生きた人を死んだ後まで構う必要はあるのか

今時珍しい仏具店の前を通った時にふと考えた。
90年も100年も生きた人を、死んだ後まで供養する必要があるのだろうか。
ここまで寿命が伸びてるのに、昔と同じような考え方で死と向き合っていることに違和感を感じたのだ。

生きてるうちに十分世話しただろう

平均寿命が60歳だった時代であれば、60歳で没して13回忌の法要をしても、死者が生まれてから73年だ。
直近の統計によると、日本人の平均寿命は男が80.79歳、女が87.05歳。100歳まで生きる人も珍しくない。
仮に90歳まで生きた人を13回忌の法要までやると、実に死者が生まれてから103年もの間、誰かしらが死者にかまうことになる。
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『ワーク・シフト』未来を考えながら人生を選択する

タイトル:ワーク・シフト
著者:リンダ・グラットン(邦訳:池村千秋)
出版社:プレジデント社

著者のリンダ・グラットンは、ロンドン・ビジネススクールで経営組織論の教鞭をとる研究者だ。
本書は、著者が主催するコンソーシアムで多くの職業人と討議した内容が元になっている。
議論の主題は、来る2025年の世界はどうなっているか、またそれに対して我々はどのように働き方をシフトさせていけば幸福になれるか、である。
邦訳の出版は2013年だが、原著の出版は2011年。実際にコンソーシアムの場が持たれたのは2009年から2010年にかけてである。
すなわち、15年後の未来について多くの職業人が討議した内容に基いて本書は書かれている。
ちきりんの働き方の本は多分にこの影響を受けている。

本書は4章立ての構成を取る。

第一章では、未来に影響をおよぼす要因を5つの分野に絞り込む。
要因1:テクノロジーの進化
要因2: グローバル化の進展
要因3: 人口構成の変化と長寿化
要因4: 社会の変化
要因5: エネルギー・環境問題の深刻化

特に私の関心に合致するのは要因3と要因4だ。

人口動態の変化と多様性の時代

長寿化により、65歳定年までに老後の十分な蓄えが出来る人間の割合は減少する。
70歳を超えても働き続けるためには、どのような職業人生を送れば幸福になれるのか。
また、人口構成の変化によりY世代(1980年から1995年生まれ。ミレニアル世代とも言う。)の影響力が拡大する。
デジタルネイティブが増加し、ワークライフバランスと仕事のやりがいを重んじる世代の台頭がどのような変化をもたらすか。
Y世代の高齢層として私見を述べると、このような価値観は低成長への適応に他ならない。
老後の安定は失われた。
ゆえに現在に強烈にスポットライトを当てる必要があるのだ。

社会と価値観の多様化は、多くの人に自分の価値観と向き合うことを求める。
おそらく、第二次世界大戦を経験した我々の祖父母の世代は、これほどまでに内省的になる必要は無かったのではないか。
それは、社会の発展がもたらした余裕でもあるし、成長余力の減少がもたらした窮屈さでもある。

暗い未来と明るい未来

第二章では、架空の未来を生きる3人の人々を通して、変化に対して漫然と対応した場合に訪れる暗い未来を語る。
具体的には、「情報技術の発達により常に時間に追われる未来」「リアルなつながりが失われた孤独な未来」「成長分野の変化により成長に取り残された地域の未来」の3つの未来像が提示される。

第三章では、変化に対して適応することでもたらされる可能性について語る。
「テクノロジーの進歩と知識のデジタル化によりもたらされる、一つのテーマに対して多くの人々が協業することが容易になる社会」
「Y世代の台頭がもたらす働き方の多様化。すなわち、一人一人の欲する働き方の実現がより容易になる社会」
「先進国から新興国、大企業から個人へのパワーの移転によりもたらされる、ミニ起業家の台頭」

目指すべき3つのシフト

第四章では、総括として、予見される未来の変化に対して私たちはどのように働き方を「シフト」させればよいかを検討している。
一つは人的資本の向上。
ゼネラリストではなく、「連続スペシャリスト」となることを提言する。
二つ目は、孤立するのではなく、協働すること。
少数の信頼できる同士(ポッセ)を得ることを提言する。
三つ目は、消費から経験へ、賃金から満足度へのシフト。
人生に関する「古い約束事」は、「働くのは給料を得るため、そしてその給料でものを消費することで私は幸福になる」という価値観だ。
これから台頭するY世代は、この古い約束事を守った親世代の破綻と葛藤を見ている。
消費では幸せになれないし、給料を得るための会社への献身は報われない場合も多いということを知っているのだ。
自分の求める働き方は何なのか。それを理解して、シフトして行くことを提案する。

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未来を見据えた行動は、現在の多数派からは異端とみなされる。
幸福になるためには、自分の求めるものと、自分に与えられた選択肢、この二つをシビアに判断する必要がある。
そして、自分の決断を信頼し、勇気を持って進んでいく必要があるのだ。

寄付が出来ない心理

自然災害が発生した時は、せいぜい数千円から1万円の範囲だが寄付をしている。
最初にやったのは東日本大震災の時だった。
ケチな自分にしては珍しいのだが、それ以外に何も出来ない自分に憤りを感じての行動だ。

この話を当時の職場の人間や生家の家族にしたら驚かれた。
みな口をそろえて、「もうちょっと余裕があればしたいのだけれど」と言っていた。
この言葉に嘘は無いのだろう。
彼らには自分と違って養うべき家族がいるし、差し迫った老後への不安がある。

だが、現代社会に生きる我々にとって、よほどエッジの効いた生き方をしているのでもない限り、生活に「余裕」が出来ることはありえない。
高齢社会の現代においては、平均的に生きているだけでは自分の所得により老後の安定を確約するだけの資産は築けない。
「自分の老後の安定を確保した上で、それでも余裕があれば他人に施す」という考え方だと、大多数の人間は生涯他人に施すほどの余裕は生まれないのだ。

所得の再分配は国家の機能である。
寄付や慈善活動はやりたいやつが自分の満足のためだけにすればいいと思う。
ただ、自分の吝嗇と向かい合うことをせず、「余裕が無い」の一言で片付けることにも疑問を感じたのだ。

沢木耕太郎の深夜特急で、シルクロードのあたりで乗り合わせたオランダの青年のエピソードが書かれている。
その青年は無一文に近かった。
なけなしの金を前払いして、中央アジアから欧州まで走る長距離バスに乗り込んだ。
食事休憩の時も飯を食わずチャイを飲むだけ。
ただ、同乗者に勧められればありがたく食事をごちそうになる。
そのような旅人だった。
そんな無一文な旅人が、ある日現地の物乞いの少年少女に施しをせがまれる。
旅人は、おそらく彼の全財産である硬貨を手のひらに広げ、その場にいた2人の少年少女と彼で等分した。
筆者はそれに衝撃を受ける。
自分は、長い旅の途中であるがゆえに、節約する必要から物乞いに施しをしなかった。
だがそれは、結局のところ自分の吝嗇に理由をつけていただけなのではないか、と。

寄付なんてしたい人だけがすればいい。
だが、吝嗇と向き合うことを、どうか避けないで欲しい。
人類の成し遂げたイノベーションの多くが、有限のリソースの配分を考える時に生まれてきたのではないだろうか。


※『深夜特急は』文庫だと6分冊ですが、下の全集版だと1冊にまとまっています。
私は最初に文庫で読み、本書の刊行にあたってこれも買いました。
本編の原型にあたる『深夜特急ノート』も収録されています。


 
プロフィール

執筆者:マイナスニキ

30代会社員。
会社と業務は何回か変わったが、金融業界で10年ぐらい働いている。
会社勤めが好きじゃなく30歳くらいの時からアルコール依存気味になる。ここ数年は断酒とSLIPの繰り返しでうつ休職もしていた。
一人で出来る生業を見つけて会社に勤めないで生きることが目標。
好きな作家は太宰治と沢木耕太郎。

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